<?xml version="1.0" encoding="UTF-8"?>
<rss version="2.0"
     xmlns:content="http://purl.org/rss/1.0/modules/content/"
     xmlns:itunes="http://www.itunes.com/DTDs/Podcast-1.0.dtd">
  <channel>
    <title>象山院からのお便り</title>
    <link>https://shouzanin.seesaa.net/</link>
    <description>象山院の院長、浅田先生による旅日記を中心に、日々の想うことを発信します</description>
    <language>ja</language>
    <docs>http://blogs.law.harvard.edu/tech/rss</docs>
    <itunes:subtitle></itunes:subtitle>
    <itunes:summary>象山院の院長、浅田先生による旅日記を中心に、日々の想うことを発信します</itunes:summary>
    <itunes:keywords></itunes:keywords>
    
    <itunes:author>浅田先生</itunes:author>
    <itunes:owner>    
       <itunes:name></itunes:name>
       <itunes:email></itunes:email>
    </itunes:owner>
        <itunes:explicit>no</itunes:explicit>
        <item>
      <link>https://shouzanin.seesaa.net/article/521727121.html</link>
      <title>失恋で苦しむことなかれ</title>
      <pubDate>Wed, 07 Oct 2026 05:27:50 +0900</pubDate>
            <description>以前に人生は一回限りではなく今世は一回限りであるというのが正しいということをブログに書いたと思います。　その通りで仏教でも人生は何度もあると説かれているわけですから　そこを悟れないと生きていても苦しみが積み重なることになろうかと思います。　ブッダこと釈尊が私たち人間に悟ってもらいたいことのひとつは人生は一回限りではないので　人生は一回限りとして執着して生きることは無明なことであり　今世の生きざまが有り　来世の生まれが生じるということをしっかりと悟らないといけないということなの..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
以前に人生は一回限りではなく今世は一回限りであるというのが正しいということをブログに書いたと思います。　その通りで仏教でも人生は何度もあると説かれているわけですから　そこを悟れないと生きていても苦しみが積み重なることになろうかと思います。　ブッダこと釈尊が私たち人間に悟ってもらいたいことのひとつは人生は一回限りではないので　人生は一回限りとして執着して生きることは無明なことであり　今世の生きざまが有り　来世の生まれが生じるということをしっかりと悟らないといけないということなのです。　つまり今世　辛く悲しいことも多く体得して　その上で心の修行をする。　そして自分は苦しくとも他人に喜びを与えて　今世を大切に生きてこそ　来世の幸せがあると信じることが大事になろうかと思います。　さて…　四苦八苦の中に愛別離苦という釈尊のお言葉が有るのは皆様　ご存じの方は多いと思います。　これは何も家族や愛する人と死に別れることだけを表した教えではなく　男女の恋愛での別れも含まれています。　現今の社会では　恋愛をしていたカップルが何らかの気持ちの変化や事情で愛情が崩れてしまい　離別することが多々　起こっています。　つまり別れを切り出してサヨナラをしたい相手と　悔しくもサヨナラを受ける相手が生じてしまいます。　サヨナラを告げる人も辛いかもしれませんが　とても愛している相手からサヨナラを告げられるのはもっと辛く苦しいでしょう。　中には失恋により悲しみのあまり　自死する人もおられる世の中になりました。　でも失恋は人間に生まれた以上　仕方のないことなのです。　そういった愛別離苦があることを前提として生まれてきているわけなのですから。　愛は憎しみに変わるという言葉が有りますが　確かに愛と憎しみは紙一重なのです。　中にはニュースで聞いたり　週刊誌などで知るように　失恋による憎しみによりストーカーになって事件を起こしてしまう人も出てしまう世の中になりました。　そんな愛の裏返しで憎を秘めた紙一重の恋愛をしている人もいるわけですね。　釈尊はそのようなことが起こる現象は　人には心が存在しているからだと述べています。　ただし心が身体のどこかに存在しているとは言っておられません。　心がどこに有るかも説いていません。　しかし心は造り出されていることは明言されています。　それは無我の中？とも言えないのです。　仏典を読んでいると心は受・想・行・識から造り出されるものと捉えるのが近いように思います。　古代インドにおいてウパニシャッド（古代インドの哲学聖典）という聖典を修めた多くの哲学者や思想家やバラモン教信者を含めた宗教家の中には　人間にはアートマンというものが宿っており　そのアートマンとは「永遠に変化しない私（真の自己）」であり　それが身体の内に存在していると信じていました。　そして当時の古代インド国民の多くはそれを信じました。　しかし後世に現れた釈尊はそれを否定されたのです。　「永遠に変化しない私と言えるものなどが身体の内になど存在しない」と明言されたのです。　般若心経の中に無色受想行識（＝永遠不変の身体・感覚・認識・心の働き・意識などは無く　すべて変化する）と言っておられます。　つまり　永遠に変化しない真の自己（我＝私）などはないと言われました。　古代インドの哲学者や思想家や宗教家たちは人間には永遠不変のアートマンが存在しているのだから心も当然に変化しないと確信していたにもかかわらず　釈尊はそのようなアートマンは存在せず　「無我」であると説かれたのです。　釈尊は当時　愛する人を失い辛苦を持つ人々に　このように永遠不変ではない私なのだから　今の辛く苦しい自分が永遠に続くことはないがゆえに　仮に一生涯に何度か度重なる辛苦が有ろうとも　心苦しい変化によって　その都度　人生そのものに失望する必要はないということを諭しておられました。　万が一ある人がそういった無我（変わらない私という固定化された実体はない）や無常（常に同じ状態や状況ではない）を悟れずに人生を終えたとしても　また来世が有るということなので　失恋にそこまで落ち込み悲しむ必要はないということを若年層の庶民にわかってもらいたかったようです。　しかしながら　現実的には愛しき人を失ってしまうと　ある程度の期間は辛く　切なく　悲しいでしょう。　それは私も若し頃は経験が有ります。　でも年月が経てば必ずゆるやかにそのような気持ちから穏やかに立ち直れるでしょう。　そしてまた新しい恋人が出来れば過去の自分の辛く悲しい気持ちはどこえやら…　忘れて消えてしまう人の方が多いでしょう。　あるいは過去を忘れて新しい生き方に幸せを見つけられることもあります。　この読者の中にもそのような体験と体得をされた方で　今はそれなりに別の幸せを感じる生活に変化された方は多いと思います。　釈尊の言葉に「ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくりだされる。　もしも汚れた心で話したり行ったりするならば、　苦しみはその人に付き従う。　車をひく牛の足跡に車輪がついて行くように。」と「ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくりだされる。　もしも清らかな心で話したり行ったりするならば、福楽はその人につき従う。　影がそのからだから離れないように。」とが有ります。　これは心の変化　つまり心の持ち方次第によって苦しみにも至り　楽にも至るということです。　釈尊の教えは永遠不変の私（アートマン）などは存在せず　無我・無常ですので心も変化する働きを当然に持っていると諭しています。　そもそも心が変化しないと思うことは間違っているのです。　釈尊は「ものごとは心にもとづく…」と諭した上で　心は変化するものだと教えているにもかかわらず　現在でも今の自分の悲哀で辛苦な心はおそらくこの先も永遠不変だと思い込んでいる人もけっこういるようです。　そんな心にいつまでもとらわれている（支配されている）と　やがて鬱の状態に入り　自分自身を見失ってしまうことにもなりかねません。　まさにそのような人は無意識か潜在意識の中でウパニシャッドによるアートマンの存在に支配されていることになります。　このことをよ～く理解して頂きたいのです。　例えば　失恋という出来事により　仮に心が辛く悲しい気持ちに変化してこれからの生きがいや希望をなくしてしまうような心境になるようなら　そこで釈尊の言葉を思い出して…　心は変化するものだと悟ってほしいのです。　そしていつの日か　辛く悲しい気持ちからは必ず解き放される私という未来があるのです。　若くてもそのことをしっかり悟ることができれば失恋という愛別離苦で　一時的には苦しくとも　けっして永遠に苦しむことはないわけです。　釈尊は四苦八苦の中で愛別離苦と説いてはいます。　そして　人生でそれを体験するとは言っておられますが　永遠に続くとは言っておられません。　そこを勘違いしないように賢い人生を歩んでゆくことが大切なのです。<a></a>

]]></itunes:summary>
      <content:encoded><![CDATA[
以前に人生は一回限りではなく今世は一回限りであるというのが正しいということをブログに書いたと思います。　その通りで仏教でも人生は何度もあると説かれているわけですから　そこを悟れないと生きていても苦しみが積み重なることになろうかと思います。　ブッダこと釈尊が私たち人間に悟ってもらいたいことのひとつは人生は一回限りではないので　人生は一回限りとして執着して生きることは無明なことであり　今世の生きざまが有り　来世の生まれが生じるということをしっかりと悟らないといけないということなのです。　つまり今世　辛く悲しいことも多く体得して　その上で心の修行をする。　そして自分は苦しくとも他人に喜びを与えて　今世を大切に生きてこそ　来世の幸せがあると信じることが大事になろうかと思います。　さて…　四苦八苦の中に愛別離苦という釈尊のお言葉が有るのは皆様　ご存じの方は多いと思います。　これは何も家族や愛する人と死に別れることだけを表した教えではなく　男女の恋愛での別れも含まれています。　現今の社会では　恋愛をしていたカップルが何らかの気持ちの変化や事情で愛情が崩れてしまい　離別することが多々　起こっています。　つまり別れを切り出してサヨナラをしたい相手と　悔しくもサヨナラを受ける相手が生じてしまいます。　サヨナラを告げる人も辛いかもしれませんが　とても愛している相手からサヨナラを告げられるのはもっと辛く苦しいでしょう。　中には失恋により悲しみのあまり　自死する人もおられる世の中になりました。　でも失恋は人間に生まれた以上　仕方のないことなのです。　そういった愛別離苦があることを前提として生まれてきているわけなのですから。　愛は憎しみに変わるという言葉が有りますが　確かに愛と憎しみは紙一重なのです。　中にはニュースで聞いたり　週刊誌などで知るように　失恋による憎しみによりストーカーになって事件を起こしてしまう人も出てしまう世の中になりました。　そんな愛の裏返しで憎を秘めた紙一重の恋愛をしている人もいるわけですね。　釈尊はそのようなことが起こる現象は　人には心が存在しているからだと述べています。　ただし心が身体のどこかに存在しているとは言っておられません。　心がどこに有るかも説いていません。　しかし心は造り出されていることは明言されています。　それは無我の中？とも言えないのです。　仏典を読んでいると心は受・想・行・識から造り出されるものと捉えるのが近いように思います。　古代インドにおいてウパニシャッド（古代インドの哲学聖典）という聖典を修めた多くの哲学者や思想家やバラモン教信者を含めた宗教家の中には　人間にはアートマンというものが宿っており　そのアートマンとは「永遠に変化しない私（真の自己）」であり　それが身体の内に存在していると信じていました。　そして当時の古代インド国民の多くはそれを信じました。　しかし後世に現れた釈尊はそれを否定されたのです。　「永遠に変化しない私と言えるものなどが身体の内になど存在しない」と明言されたのです。　般若心経の中に無色受想行識（＝永遠不変の身体・感覚・認識・心の働き・意識などは無く　すべて変化する）と言っておられます。　つまり　永遠に変化しない真の自己（我＝私）などはないと言われました。　古代インドの哲学者や思想家や宗教家たちは人間には永遠不変のアートマンが存在しているのだから心も当然に変化しないと確信していたにもかかわらず　釈尊はそのようなアートマンは存在せず　「無我」であると説かれたのです。　釈尊は当時　愛する人を失い辛苦を持つ人々に　このように永遠不変ではない私なのだから　今の辛く苦しい自分が永遠に続くことはないがゆえに　仮に一生涯に何度か度重なる辛苦が有ろうとも　心苦しい変化によって　その都度　人生そのものに失望する必要はないということを諭しておられました。　万が一ある人がそういった無我（変わらない私という固定化された実体はない）や無常（常に同じ状態や状況ではない）を悟れずに人生を終えたとしても　また来世が有るということなので　失恋にそこまで落ち込み悲しむ必要はないということを若年層の庶民にわかってもらいたかったようです。　しかしながら　現実的には愛しき人を失ってしまうと　ある程度の期間は辛く　切なく　悲しいでしょう。　それは私も若し頃は経験が有ります。　でも年月が経てば必ずゆるやかにそのような気持ちから穏やかに立ち直れるでしょう。　そしてまた新しい恋人が出来れば過去の自分の辛く悲しい気持ちはどこえやら…　忘れて消えてしまう人の方が多いでしょう。　あるいは過去を忘れて新しい生き方に幸せを見つけられることもあります。　この読者の中にもそのような体験と体得をされた方で　今はそれなりに別の幸せを感じる生活に変化された方は多いと思います。　釈尊の言葉に「ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくりだされる。　もしも汚れた心で話したり行ったりするならば、　苦しみはその人に付き従う。　車をひく牛の足跡に車輪がついて行くように。」と「ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくりだされる。　もしも清らかな心で話したり行ったりするならば、福楽はその人につき従う。　影がそのからだから離れないように。」とが有ります。　これは心の変化　つまり心の持ち方次第によって苦しみにも至り　楽にも至るということです。　釈尊の教えは永遠不変の私（アートマン）などは存在せず　無我・無常ですので心も変化する働きを当然に持っていると諭しています。　そもそも心が変化しないと思うことは間違っているのです。　釈尊は「ものごとは心にもとづく…」と諭した上で　心は変化するものだと教えているにもかかわらず　現在でも今の自分の悲哀で辛苦な心はおそらくこの先も永遠不変だと思い込んでいる人もけっこういるようです。　そんな心にいつまでもとらわれている（支配されている）と　やがて鬱の状態に入り　自分自身を見失ってしまうことにもなりかねません。　まさにそのような人は無意識か潜在意識の中でウパニシャッドによるアートマンの存在に支配されていることになります。　このことをよ～く理解して頂きたいのです。　例えば　失恋という出来事により　仮に心が辛く悲しい気持ちに変化してこれからの生きがいや希望をなくしてしまうような心境になるようなら　そこで釈尊の言葉を思い出して…　心は変化するものだと悟ってほしいのです。　そしていつの日か　辛く悲しい気持ちからは必ず解き放される私という未来があるのです。　若くてもそのことをしっかり悟ることができれば失恋という愛別離苦で　一時的には苦しくとも　けっして永遠に苦しむことはないわけです。　釈尊は四苦八苦の中で愛別離苦と説いてはいます。　そして　人生でそれを体験するとは言っておられますが　永遠に続くとは言っておられません。　そこを勘違いしないように賢い人生を歩んでゆくことが大切なのです。<a name="more"></a>

]]><![CDATA[
]]></content:encoded>
            <category>日記</category>
      <author>浅田先生</author>
      <guid isPermaLink="false">blog:https://blog.seesaa.jp,shouzanin/521727121</guid>
                </item>
        <item>
      <link>https://shouzanin.seesaa.net/article/521475121.html</link>
      <title>過ぎたるは猶及ばざるが如し</title>
      <pubDate>Thu, 03 Sep 2026 03:01:41 +0900</pubDate>
            <description>今　ネパールで巨大な土石流により　多くの国民が大切な命を奪われてしまっています。　ご冥福を心よりお祈り申し上げます。　私は若い頃　ネパールを観光していました。　実際は観光ではなく山岳地帯にあるラマ教のお寺を巡礼する目的での旅をしていたのですが　あのような美しいヒマラヤ山脈が見えるところであのような悲惨な天災が発生するとは　当時は思いもよりませんでした。　ラマ教とはチベット仏教のことなのですが　異なる宗教だと誤解されている方も居られます。　でも実際は同じと考えて良いと思いますね..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
今　ネパールで巨大な土石流により　多くの国民が大切な命を奪われてしまっています。　ご冥福を心よりお祈り申し上げます。　私は若い頃　ネパールを観光していました。　実際は観光ではなく山岳地帯にあるラマ教のお寺を巡礼する目的での旅をしていたのですが　あのような美しいヒマラヤ山脈が見えるところであのような悲惨な天災が発生するとは　当時は思いもよりませんでした。　ラマ教とはチベット仏教のことなのですが　異なる宗教だと誤解されている方も居られます。　でも実際は同じと考えて良いと思いますね。　ラマとは高僧を意味する言葉です。　私はルンビニからポカラ　ポカラからカトマンズへと移動してました。　その中でもポカラにはとても澄んだ湖があり　背景にはヒマラヤ山脈がそびえたち　とても美しい街なのです。　それ故に世界中から多くの外国人が訪問しています。　その大半はトレッキングや登山が目的のようですが　そんな中で私はだだひたすらにポカラのチベット寺院などで瞑想していたわけです。　そんなチベット寺院には多くの修行小僧がたくさん居て　とても賑やかな印象体験であったことを今でも覚えています。　あの少年たちは今　何歳になって何をしているのだろ～なんて考える時が有ります。　あのまま大人の僧侶になったのかな～　それとも厳しい修行に耐えかねて普通の一般的な大人になって結婚して子供を持っているのかな～と　そんなやんわりとした気持ちになりますね。　私の目的は中道というものを感じるために瞑想していたのですが　ラマ寺院の縁側で一時間以上　瞑想していてもなかなか集中できなくて　ついに足が痺れきってしまい　無理して立とうとした時につまずいて転げて足を擦りむいてしまいました。　そんな姿を　偶然　小坊主たち（小僧たち）に見られて笑われてしまいました。　でもそんな小僧たちと言葉が通じなくても遊び親しんだひと時がおかしくて楽しくてね…　そのように小僧たちと一緒に笑いと喜びに満ち溢れているうちに私自身の心が安らいでいたことも覚えています。　でも彼らは偉いですよ。　だってチベット仏教で僧侶の道を歩むと言うことは原則　異性との恋愛は無論　性交して子供を持つことも結婚することも一生涯禁じられています。　その覚悟で出家してチベット寺院に入るわけですから　私には到底考えられません。　でもそれって本当に中道を悟って八正道を貫き解脱できる道なのかな～なんて思っていました。　しかしながら仏教によると六道から解脱するためには　そうしなければならないのですから　それもひとつの生き方なのでしょう。　今世の私にはまだまだ歩む勇気もなく根性もないです。　私はあの頃　孔子様の教え「過ぎたるは猶及ばざるが如し」に心がけることに専念していました。　なぜなら私は若い頃は論語のそのことわざと仏教でいう中道がほば同じ意味であると思っていましたから…　しかし　その小僧たちに笑われてしまったことでそれらは異なることに気づかされました。　凡人が無理をしてはいけないということなのですよね。　中道とは歳を重ねてゆくにつれ　自然に感じ取ってゆくものなのでしょうね…　きっと。　私は今世は在家で生きてきましたが　ただ　あの小僧たちの笑い顔やあどけなさを思い出すと　人生で最も大切なのは地位・名誉・財産による喜びなんかではなく　真に人との出会いによる思い出や感謝や思いやりや癒しや慈しみによる　そのような素朴な喜びなのだと想える年齢になりました。　それだけを神仏はいつも人間社会で観ているのだと確信しました。　もちろん　そのことはいろんな国で複数の高僧から煩悩から離れて無明と無常を悟るという仏教を学得して知ってはいましたが…　そのことをネパールの小僧たちのふるまいや明るさなどにより体得させられ　実感しました。　あの世に持っていけるものはそれらの喜びしかないことも真に悟りました。<a></a>

]]></itunes:summary>
      <content:encoded><![CDATA[
今　ネパールで巨大な土石流により　多くの国民が大切な命を奪われてしまっています。　ご冥福を心よりお祈り申し上げます。　私は若い頃　ネパールを観光していました。　実際は観光ではなく山岳地帯にあるラマ教のお寺を巡礼する目的での旅をしていたのですが　あのような美しいヒマラヤ山脈が見えるところであのような悲惨な天災が発生するとは　当時は思いもよりませんでした。　ラマ教とはチベット仏教のことなのですが　異なる宗教だと誤解されている方も居られます。　でも実際は同じと考えて良いと思いますね。　ラマとは高僧を意味する言葉です。　私はルンビニからポカラ　ポカラからカトマンズへと移動してました。　その中でもポカラにはとても澄んだ湖があり　背景にはヒマラヤ山脈がそびえたち　とても美しい街なのです。　それ故に世界中から多くの外国人が訪問しています。　その大半はトレッキングや登山が目的のようですが　そんな中で私はだだひたすらにポカラのチベット寺院などで瞑想していたわけです。　そんなチベット寺院には多くの修行小僧がたくさん居て　とても賑やかな印象体験であったことを今でも覚えています。　あの少年たちは今　何歳になって何をしているのだろ～なんて考える時が有ります。　あのまま大人の僧侶になったのかな～　それとも厳しい修行に耐えかねて普通の一般的な大人になって結婚して子供を持っているのかな～と　そんなやんわりとした気持ちになりますね。　私の目的は中道というものを感じるために瞑想していたのですが　ラマ寺院の縁側で一時間以上　瞑想していてもなかなか集中できなくて　ついに足が痺れきってしまい　無理して立とうとした時につまずいて転げて足を擦りむいてしまいました。　そんな姿を　偶然　小坊主たち（小僧たち）に見られて笑われてしまいました。　でもそんな小僧たちと言葉が通じなくても遊び親しんだひと時がおかしくて楽しくてね…　そのように小僧たちと一緒に笑いと喜びに満ち溢れているうちに私自身の心が安らいでいたことも覚えています。　でも彼らは偉いですよ。　だってチベット仏教で僧侶の道を歩むと言うことは原則　異性との恋愛は無論　性交して子供を持つことも結婚することも一生涯禁じられています。　その覚悟で出家してチベット寺院に入るわけですから　私には到底考えられません。　でもそれって本当に中道を悟って八正道を貫き解脱できる道なのかな～なんて思っていました。　しかしながら仏教によると六道から解脱するためには　そうしなければならないのですから　それもひとつの生き方なのでしょう。　今世の私にはまだまだ歩む勇気もなく根性もないです。　私はあの頃　孔子様の教え「過ぎたるは猶及ばざるが如し」に心がけることに専念していました。　なぜなら私は若い頃は論語のそのことわざと仏教でいう中道がほば同じ意味であると思っていましたから…　しかし　その小僧たちに笑われてしまったことでそれらは異なることに気づかされました。　凡人が無理をしてはいけないということなのですよね。　中道とは歳を重ねてゆくにつれ　自然に感じ取ってゆくものなのでしょうね…　きっと。　私は今世は在家で生きてきましたが　ただ　あの小僧たちの笑い顔やあどけなさを思い出すと　人生で最も大切なのは地位・名誉・財産による喜びなんかではなく　真に人との出会いによる思い出や感謝や思いやりや癒しや慈しみによる　そのような素朴な喜びなのだと想える年齢になりました。　それだけを神仏はいつも人間社会で観ているのだと確信しました。　もちろん　そのことはいろんな国で複数の高僧から煩悩から離れて無明と無常を悟るという仏教を学得して知ってはいましたが…　そのことをネパールの小僧たちのふるまいや明るさなどにより体得させられ　実感しました。　あの世に持っていけるものはそれらの喜びしかないことも真に悟りました。<a name="more"></a>

]]><![CDATA[
]]></content:encoded>
            <category>日記</category>
      <author>浅田先生</author>
      <guid isPermaLink="false">blog:https://blog.seesaa.jp,shouzanin/521475121</guid>
                </item>
        <item>
      <link>https://shouzanin.seesaa.net/article/519733156.html</link>
      <title>捨身飼虎</title>
      <pubDate>Thu, 15 Jan 2026 03:50:18 +0900</pubDate>
            <description>２０２６年　あけましておめでとうございます。　新年初のブログはまた仏教の大切な教えをお伝えしたいと思います。　関西にお住いの方なら　奈良の法隆寺などに一度は行かれた方は多いと思いますが　大宝蔵院（百済観音堂）内に国宝の玉虫厨子が安置されております。　そこに描かれている数種類の絵画の中で右側面に捨身飼虎図というのが有ります。　これはお釈迦さまの前世の物語を画像化したもので　それはジャータカ（紀元前３世紀頃に成立した釈迦の前世の物語）として出版されている仏説からヒントを得て　その..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
２０２６年　あけましておめでとうございます。　新年初のブログはまた仏教の大切な教えをお伝えしたいと思います。　関西にお住いの方なら　奈良の法隆寺などに一度は行かれた方は多いと思いますが　大宝蔵院（百済観音堂）内に国宝の玉虫厨子が安置されております。　そこに描かれている数種類の絵画の中で右側面に捨身飼虎図というのが有ります。　これはお釈迦さまの前世の物語を画像化したもので　それはジャータカ（紀元前３世紀頃に成立した釈迦の前世の物語）として出版されている仏説からヒントを得て　その数世紀後　仏教が中国に入り賢愚経や金光明経として出来た漢訳の経典の中に語られています。　内容は　はるか遠い古代にマハーラタという王様がある国（たぶんインド？）を治めていた時代の話です。　紀元前何年かは　はかり知れませんが　お釈迦様がまだ如来になられていない前世の時代ですので　はるか遠い大昔の古い古い時代ですね。　王様には三人の息子が居られました。　長男がマハーパーラ　次男がマハーデーヴァ　三男がマハーサッタという名前でした。　ある日　父親のマハーラタは息子三人を連れて山の散歩に出かけました。　ある林の中で昼食をとった後　王様とその三人の息子たちは別々の道を散策しながらお城に帰ることにしました。　息子たち三人はしばらく歩くと道端にうずくまる一匹の牝虎が七匹の子供を抱えて　餓死寸前の挙句　息絶えていく瞬間を目にしました。　それを見た長男のマハーパーラは「この弱った母虎は飢えて仕方なく子供たちを食べてしまうかもしれないなぁ。　可哀想だが仕方がない。」というような憐れみと情愛を感じながら立去りました。　次に次男のマハーデーヴァは「哀れで非常に悲しことだが　自分に助けてあげる手段が分からない。」というように長男と同じく憐れみと情愛を感じながら立去りました。　しかし三男のマハーサッタは「私の身を役立てる時が来た。　この母虎と子供たちに私の身を捧げよう。」と決意し　衣服を脱いで傍に落ちていた尖った竹棒で自分の身体を突き刺して　流血したその血の匂いで　その虎たちの前に身を投じて母虎とその七匹の子供たちに我が身を食べさせました。　そのおかげで虎の親子たちは体力を回復させることが出来　生き延びたのです。　どうでしょう？　これは現代社会の人間たちに真の情愛と誠の慈悲愛でもって隣人を助ける心得を示しています。　もちろん実際に飢えた動物や愛する人や神のために我が身を捧げるような献身自死や人身御供・人身供犠といったような自ら生贄じみたことをしろということではありません。　この説話はあくまでも現代社会の人間たちへの比喩なのですが　現代社会においては利他愛や情愛といっても「あの人　可哀そう…」「この人を助けてあげたいが…」「国か誰かがあの哀れな人を救ってあげれないかな～」という言葉だけで　実際に救う行動を起こしていない人間たちへの説法なのです。　お金で困窮している人が居ればほんの少しでも自分の貯金や収入から…　食べ物で困っている人が居れば少しでも恵んであげる…　病気で苦しんでいる人が居れば良く効く薬を探しに行って与えてあげる…　必死に仕事を探していても仕事が無く困っている人が居れば自分も一緒に探してあげる…　といった様な行為など　そういった真の情愛を神仏は人間に求めているお話なのです。　そして言うまでもなく　その三男のマハーサッタはお釈迦様の前世だったのです。　お釈迦さまは如来となって人間の姿を借りて紀元前５６５年４月８日にお誕生された後　５３０年から４８６年２月１５日に涅槃されるまでの　いつかの期間のどこかで　仏弟子たちに真の情愛や誠の慈悲愛を教えるため　当時の凄まじいインド社会において　そのご自身の前世のお話をされたそうです。
　　　<a></a>

]]></itunes:summary>
      <content:encoded><![CDATA[
２０２６年　あけましておめでとうございます。　新年初のブログはまた仏教の大切な教えをお伝えしたいと思います。　関西にお住いの方なら　奈良の法隆寺などに一度は行かれた方は多いと思いますが　大宝蔵院（百済観音堂）内に国宝の玉虫厨子が安置されております。　そこに描かれている数種類の絵画の中で右側面に捨身飼虎図というのが有ります。　これはお釈迦さまの前世の物語を画像化したもので　それはジャータカ（紀元前３世紀頃に成立した釈迦の前世の物語）として出版されている仏説からヒントを得て　その数世紀後　仏教が中国に入り賢愚経や金光明経として出来た漢訳の経典の中に語られています。　内容は　はるか遠い古代にマハーラタという王様がある国（たぶんインド？）を治めていた時代の話です。　紀元前何年かは　はかり知れませんが　お釈迦様がまだ如来になられていない前世の時代ですので　はるか遠い大昔の古い古い時代ですね。　王様には三人の息子が居られました。　長男がマハーパーラ　次男がマハーデーヴァ　三男がマハーサッタという名前でした。　ある日　父親のマハーラタは息子三人を連れて山の散歩に出かけました。　ある林の中で昼食をとった後　王様とその三人の息子たちは別々の道を散策しながらお城に帰ることにしました。　息子たち三人はしばらく歩くと道端にうずくまる一匹の牝虎が七匹の子供を抱えて　餓死寸前の挙句　息絶えていく瞬間を目にしました。　それを見た長男のマハーパーラは「この弱った母虎は飢えて仕方なく子供たちを食べてしまうかもしれないなぁ。　可哀想だが仕方がない。」というような憐れみと情愛を感じながら立去りました。　次に次男のマハーデーヴァは「哀れで非常に悲しことだが　自分に助けてあげる手段が分からない。」というように長男と同じく憐れみと情愛を感じながら立去りました。　しかし三男のマハーサッタは「私の身を役立てる時が来た。　この母虎と子供たちに私の身を捧げよう。」と決意し　衣服を脱いで傍に落ちていた尖った竹棒で自分の身体を突き刺して　流血したその血の匂いで　その虎たちの前に身を投じて母虎とその七匹の子供たちに我が身を食べさせました。　そのおかげで虎の親子たちは体力を回復させることが出来　生き延びたのです。　どうでしょう？　これは現代社会の人間たちに真の情愛と誠の慈悲愛でもって隣人を助ける心得を示しています。　もちろん実際に飢えた動物や愛する人や神のために我が身を捧げるような献身自死や人身御供・人身供犠といったような自ら生贄じみたことをしろということではありません。　この説話はあくまでも現代社会の人間たちへの比喩なのですが　現代社会においては利他愛や情愛といっても「あの人　可哀そう…」「この人を助けてあげたいが…」「国か誰かがあの哀れな人を救ってあげれないかな～」という言葉だけで　実際に救う行動を起こしていない人間たちへの説法なのです。　お金で困窮している人が居ればほんの少しでも自分の貯金や収入から…　食べ物で困っている人が居れば少しでも恵んであげる…　病気で苦しんでいる人が居れば良く効く薬を探しに行って与えてあげる…　必死に仕事を探していても仕事が無く困っている人が居れば自分も一緒に探してあげる…　といった様な行為など　そういった真の情愛を神仏は人間に求めているお話なのです。　そして言うまでもなく　その三男のマハーサッタはお釈迦様の前世だったのです。　お釈迦さまは如来となって人間の姿を借りて紀元前５６５年４月８日にお誕生された後　５３０年から４８６年２月１５日に涅槃されるまでの　いつかの期間のどこかで　仏弟子たちに真の情愛や誠の慈悲愛を教えるため　当時の凄まじいインド社会において　そのご自身の前世のお話をされたそうです。<br />　　　<a name="more"></a>

]]><![CDATA[
]]></content:encoded>
            <category>日記</category>
      <author>浅田先生</author>
      <guid isPermaLink="false">blog:https://blog.seesaa.jp,shouzanin/519733156</guid>
                </item>
        <item>
      <link>https://shouzanin.seesaa.net/article/518809033.html</link>
      <title>人生は「あっ！という間」</title>
      <pubDate>Tue, 04 Nov 2025 02:25:48 +0900</pubDate>
            <description>還暦を超えた今　人生は早かったなぁ～と感じる方は居られませんか？　若年層の方々はそんなことは考えない日々が多いかもしれませんが　５０才前後を過ぎてから　そう思う方は多いようです。　私もこの年齢になり　振り返ればまず後悔する事ばかり　「あの時にそうしておけばよかったなぁ」「その時にこうしておけばよかったなぁ」なんて後悔することが山ほどあります。　すべては後の祭りなのですがね…　でも今思えば今の自分があることは元から当たり前にそうなっていたと思うようになりました。　なので後悔する..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
還暦を超えた今　人生は早かったなぁ～と感じる方は居られませんか？　若年層の方々はそんなことは考えない日々が多いかもしれませんが　５０才前後を過ぎてから　そう思う方は多いようです。　私もこの年齢になり　振り返ればまず後悔する事ばかり　「あの時にそうしておけばよかったなぁ」「その時にこうしておけばよかったなぁ」なんて後悔することが山ほどあります。　すべては後の祭りなのですがね…　でも今思えば今の自分があることは元から当たり前にそうなっていたと思うようになりました。　なので後悔すること自体が愚かであり　現今の自分がありのままの自分であると理解するようになりました。　私のところへ来る相談者の多くも過去を振り返れば後悔することが多々あるとおっしゃる方が多いのですが　仏教によると元々人間は後悔して苦悩するのが当たり前に生まれているのでそれで当前のようです。　もちろん　若い時や中年の時に嬉しいこと　楽しいこと　快楽や快感を何度か体験して人生に喜びと生きがいを持たれた方は多いと思われます。　でも年月が経てばやがてまた辛いこと　寂しいこと　苦しいことが出てきたはずです。　ちがいますか？　「人生　此の方　生まれてからずーっと幸せに来れました」という方の言葉を稀に聞くことがありますが　それは嘘でしょう( ´艸｀)　ご自身にそう言い聞かせて生きているだけのはずです。　まあ　そうしてポジティブに生きてゆくことはけっして悪いことではありませんが　私から観ればこの人は本当は寂しい人？それとも辛い人？または切ない人？なんだな～と思ってしまいます。　釈尊（お釈迦様）は「人生は苦である！」と説かれました。　私は若い頃はその意味が分かりませんでした。　なぜなら両親からは毎日きちんと朝昼晩と食べさせていただき　ごく普通に教育を受けさせていただき　育てられましたし　その上　若い頃は身体も丈夫で健康だし　良き友人や楽しい友人にもたくさん恵まれましたからね。　もちろん辛いことも悲しいことも体験して泣いたこともあるのですが　すぐまた喜びの日々が戻ってきたりしていましたので。　ただ過去を思い出して後悔するたびにまた辛い日々がやってきて　苦しみの時期が巡りましたが　年月が経つとやがてまた喜びの日々が来て幸せの時期が戻ってきたからです。　でも中年を超えた辺りから近年では体力や気力が欠如し　身体の不具合も発症してくるこの歳ともなれば　これから先の老年の人生をどう過ごしてゆくかが課題の毎日となりました。　ただ私は仏教を深く信じて生きているので　”人生一回限り”　だなんて無知・無明なことは思っていませんので死を怖がることは皆無です。　むしろ真の世界（無我・霊魂・変化する姿・真の姿が存在する世界）に帰郷することへの喜びや楽しみのほうが大いに勝っているからです。　確かに地球上の世界　つまりこの浮世は怒りや哀れが有ったり　挫折感や失望感は有るけれども　逆に快楽や快感が有ったり　嬉しいことや喜びをたくさん味わえる生きがいのある世界です。　しかしながらそれらの年月は思えばただ短く　中国の盛唐の時代に居られた詩人：李白が語るようにまさに「浮生夢の如し」です。　この世の喜怒哀楽も想えば夢の様なもので正に儚いものなのです。　どんなに幸せを得ても苦しみは必ず付きまとう世界に人間は生きているので　釈尊が説かれたように　どんなに大きな幸せ（地位・名誉・財産　あるいは　心地よい恋愛・幸せな家庭など）を得ても煩悩のあるこの世　修行の多いこの世に心を寄せて執着して生きている限り　結局は四苦八苦の道中　やがていつかはそれらの幸せは別の苦しみに支配されて　また苦に至るということなのです。　それよりも執着を捨て　苦しいことをひとつひとつ乗り越えて　怠ることなく修行を忘れずに生きてゆくことが　終には真の生きがい　真の幸せを感じ取れるということですね。　　　<a></a>

]]></itunes:summary>
      <content:encoded><![CDATA[
還暦を超えた今　人生は早かったなぁ～と感じる方は居られませんか？　若年層の方々はそんなことは考えない日々が多いかもしれませんが　５０才前後を過ぎてから　そう思う方は多いようです。　私もこの年齢になり　振り返ればまず後悔する事ばかり　「あの時にそうしておけばよかったなぁ」「その時にこうしておけばよかったなぁ」なんて後悔することが山ほどあります。　すべては後の祭りなのですがね…　でも今思えば今の自分があることは元から当たり前にそうなっていたと思うようになりました。　なので後悔すること自体が愚かであり　現今の自分がありのままの自分であると理解するようになりました。　私のところへ来る相談者の多くも過去を振り返れば後悔することが多々あるとおっしゃる方が多いのですが　仏教によると元々人間は後悔して苦悩するのが当たり前に生まれているのでそれで当前のようです。　もちろん　若い時や中年の時に嬉しいこと　楽しいこと　快楽や快感を何度か体験して人生に喜びと生きがいを持たれた方は多いと思われます。　でも年月が経てばやがてまた辛いこと　寂しいこと　苦しいことが出てきたはずです。　ちがいますか？　「人生　此の方　生まれてからずーっと幸せに来れました」という方の言葉を稀に聞くことがありますが　それは嘘でしょう( ´艸｀)　ご自身にそう言い聞かせて生きているだけのはずです。　まあ　そうしてポジティブに生きてゆくことはけっして悪いことではありませんが　私から観ればこの人は本当は寂しい人？それとも辛い人？または切ない人？なんだな～と思ってしまいます。　釈尊（お釈迦様）は「人生は苦である！」と説かれました。　私は若い頃はその意味が分かりませんでした。　なぜなら両親からは毎日きちんと朝昼晩と食べさせていただき　ごく普通に教育を受けさせていただき　育てられましたし　その上　若い頃は身体も丈夫で健康だし　良き友人や楽しい友人にもたくさん恵まれましたからね。　もちろん辛いことも悲しいことも体験して泣いたこともあるのですが　すぐまた喜びの日々が戻ってきたりしていましたので。　ただ過去を思い出して後悔するたびにまた辛い日々がやってきて　苦しみの時期が巡りましたが　年月が経つとやがてまた喜びの日々が来て幸せの時期が戻ってきたからです。　でも中年を超えた辺りから近年では体力や気力が欠如し　身体の不具合も発症してくるこの歳ともなれば　これから先の老年の人生をどう過ごしてゆくかが課題の毎日となりました。　ただ私は仏教を深く信じて生きているので　”人生一回限り”　だなんて無知・無明なことは思っていませんので死を怖がることは皆無です。　むしろ真の世界（無我・霊魂・変化する姿・真の姿が存在する世界）に帰郷することへの喜びや楽しみのほうが大いに勝っているからです。　確かに地球上の世界　つまりこの浮世は怒りや哀れが有ったり　挫折感や失望感は有るけれども　逆に快楽や快感が有ったり　嬉しいことや喜びをたくさん味わえる生きがいのある世界です。　しかしながらそれらの年月は思えばただ短く　中国の盛唐の時代に居られた詩人：李白が語るようにまさに「浮生夢の如し」です。　この世の喜怒哀楽も想えば夢の様なもので正に儚いものなのです。　どんなに幸せを得ても苦しみは必ず付きまとう世界に人間は生きているので　釈尊が説かれたように　どんなに大きな幸せ（地位・名誉・財産　あるいは　心地よい恋愛・幸せな家庭など）を得ても煩悩のあるこの世　修行の多いこの世に心を寄せて執着して生きている限り　結局は四苦八苦の道中　やがていつかはそれらの幸せは別の苦しみに支配されて　また苦に至るということなのです。　それよりも執着を捨て　苦しいことをひとつひとつ乗り越えて　怠ることなく修行を忘れずに生きてゆくことが　終には真の生きがい　真の幸せを感じ取れるということですね。　　　<a name="more"></a>

]]><![CDATA[
]]></content:encoded>
            <category>日記</category>
      <author>浅田先生</author>
      <guid isPermaLink="false">blog:https://blog.seesaa.jp,shouzanin/518809033</guid>
                </item>
        <item>
      <link>https://shouzanin.seesaa.net/article/517627695.html</link>
      <title>バラモン（婆羅門）とは</title>
      <pubDate>Thu, 14 Aug 2025 03:25:16 +0900</pubDate>
            <description>現今もまだ　一部の悪質な新興宗教の教団に導かれて入会する若者が増えているようです。　そういった教団からの使者がクライアントの苦しい心を癒す言葉を巧みに使い　最終的には当宗教の会員にさせられ　クライアントは資産や金員を投げ出したにもかかわらず　真の幸せを得ることなく苦しんでいる現信者や元信者が多くいるようです。　これは昔からそういった悪質な宗教にはまり込んでしまう人は多かったのですが　そういった教壇に立つその教祖やその幹部は仏教またはキリスト教の信者でもあったりするようです。　..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
現今もまだ　一部の悪質な新興宗教の教団に導かれて入会する若者が増えているようです。　そういった教団からの使者がクライアントの苦しい心を癒す言葉を巧みに使い　最終的には当宗教の会員にさせられ　クライアントは資産や金員を投げ出したにもかかわらず　真の幸せを得ることなく苦しんでいる現信者や元信者が多くいるようです。　これは昔からそういった悪質な宗教にはまり込んでしまう人は多かったのですが　そういった教壇に立つその教祖やその幹部は仏教またはキリスト教の信者でもあったりするようです。　私は真の仏教を日本をはじめ中国やインドで学び　修行し　経験を積み重ねて体得した仏教信者のひとりとして語りたいと思います。　では何故　人は仏教を主体にした悪質な新興宗教の一員の巧みな言葉に惹かれてしまうのでしょうか？　それは原始仏教を知らないからだと思います。　例えば中村元先生がパーリ語で書かれた仏教の古文（原始仏教）を和訳された「ブッダの言葉」　数冊の原始仏教の和訳本が有る内　その中でも紀元前に残されていた最も古い仏教の実話を一冊の本に纏めている　スッタニパータ（お釈迦様との対話で語られた多くの言葉）をよく読まれるとよろしいかと思います。　原始仏教　それは釈尊（お釈迦様）が約２５５０年前に語られた釈尊の真実の言葉（古代インド語）の数々を全世界の各国々が母国語で訳しています。　この訳本を修得すれば真（まこと）の仏教を会得できます。　現今　仏教を説いて導く僧侶や教祖の言葉や行為がこのスッタニパータから外れていないか否か　まずそれをしっかり自分の目と脳裏で見極めることでしょう。　そうすれば仏教を主体（説法やお手本など）とした悪質な宗教の勧誘に惑わされることはないのです。　例えば日本においてのこの和訳本　スッタニパータの第三説の九にヴァーセッタという題目で書かれているブッダ（釈尊＝お釈迦様）の言葉を読んでいきましょう。　ヴァーセッタというのはある青年の名前で　ある日　彼は友人であるバーラドヴァ―ジャと「どうすればバラモン（婆羅門）になれるであろうか？」という議論をインドのイッチャーナンガラ村でしていたそうです。　彼らは一切の煩悩（人間には１０８個あると言われている汚れた欲望）をすべて断ち切って誠に人として正しい心で持って正しく道を歩むことに努力し専念していた者たちでありましたが　更に上人（徳の高い僧侶）であるその婆羅門という賢者（煩悩を完全に滅した覚者）になるべく行為を　ああでもない　こうでもないと　まだ誠の賢者に成れていない弟子がいくら議論したところで埒が明かない場面が有ります。　それで　真理（智慧を完成し　世を知り　宇宙を知り　全ての苦しみから解放され　心が安定した悟りの境地）を得ておられるブッダことお釈迦様にその真意を聞くことにしたのです。　バラモン（婆羅門）とは僧侶のことなのですが　単なる僧侶ではなく真正しい心で正しい行為をする僧侶のことなのです。　そこでイッチャーナンガラ村の林に住んでおられたブッダ（釈尊）のところへ赴いたのです。　そこで彼らは釈尊に恭しくバラモンへとなる人格者の道を尋ねたのです。　それで釈尊は丁寧に前置きの喩えをいくつか述べながら　和訳本の６１８番目に語られている「人間のうちで司祭の職によって生活する者があれば　かれは司祭者であって　バラモンではないと知れ。　ヴァーセッタよ。」と諭しています。　司祭者とは僧侶や教祖や神父や牧師のことです。　その後にバラモンとなっている人格者の詳細を多く述べていて　和訳本の６５０番目には　人は「生まれによってバラモンとなるのではない。　行為によってバラモンなのである。」と説いています。　つまり家柄や家系の職業や地位や名誉によってバラモンとなるのではなく　苦しみを乗り越え　高い智慧を持ち　隣人や他人に苦しみを与えることなく　性愛や食欲に貪ることなく　怒ることなく　愚かな行いをすることなく　慎み深く人に接し　正しい心がけと生き方の戒律を守り　歓楽や快楽を捨て　欲望や愛執を断ち切り　煩悩を滅した者がバラモンであると説いています。　つまりお釈迦様は　出家者であろうが在家者であろうが　有職者であろうが無職者であろうが　聖職者であろうが一般人であろうが　僧侶であろうが凡人であろうが　貴族であろうが平民であろうが　家柄や職業に一切関係なく　日常　その者が歩んでいる正しい行為そのものによってバラモンであると言ってます。　つまり司祭者（僧侶や教祖など）というのは単にその人の職業であってバラモンで有るか否かは分からないということなのです。　人はこのことをよ～く理解しておれば　いかなる宗教でも　その法を説くその僧侶や教祖らの生まれ育ちや言葉に魅了されたり惹かれることなく　尊師と呼ばれる彼らの日常の行為を観察します。　そうすれば決して悪質な聖職者や司祭者に魅了されたり惹かれることはないのです。　
　　<a></a>

]]></itunes:summary>
      <content:encoded><![CDATA[
現今もまだ　一部の悪質な新興宗教の教団に導かれて入会する若者が増えているようです。　そういった教団からの使者がクライアントの苦しい心を癒す言葉を巧みに使い　最終的には当宗教の会員にさせられ　クライアントは資産や金員を投げ出したにもかかわらず　真の幸せを得ることなく苦しんでいる現信者や元信者が多くいるようです。　これは昔からそういった悪質な宗教にはまり込んでしまう人は多かったのですが　そういった教壇に立つその教祖やその幹部は仏教またはキリスト教の信者でもあったりするようです。　私は真の仏教を日本をはじめ中国やインドで学び　修行し　経験を積み重ねて体得した仏教信者のひとりとして語りたいと思います。　では何故　人は仏教を主体にした悪質な新興宗教の一員の巧みな言葉に惹かれてしまうのでしょうか？　それは原始仏教を知らないからだと思います。　例えば中村元先生がパーリ語で書かれた仏教の古文（原始仏教）を和訳された「ブッダの言葉」　数冊の原始仏教の和訳本が有る内　その中でも紀元前に残されていた最も古い仏教の実話を一冊の本に纏めている　スッタニパータ（お釈迦様との対話で語られた多くの言葉）をよく読まれるとよろしいかと思います。　原始仏教　それは釈尊（お釈迦様）が約２５５０年前に語られた釈尊の真実の言葉（古代インド語）の数々を全世界の各国々が母国語で訳しています。　この訳本を修得すれば真（まこと）の仏教を会得できます。　現今　仏教を説いて導く僧侶や教祖の言葉や行為がこのスッタニパータから外れていないか否か　まずそれをしっかり自分の目と脳裏で見極めることでしょう。　そうすれば仏教を主体（説法やお手本など）とした悪質な宗教の勧誘に惑わされることはないのです。　例えば日本においてのこの和訳本　スッタニパータの第三説の九にヴァーセッタという題目で書かれているブッダ（釈尊＝お釈迦様）の言葉を読んでいきましょう。　ヴァーセッタというのはある青年の名前で　ある日　彼は友人であるバーラドヴァ―ジャと「どうすればバラモン（婆羅門）になれるであろうか？」という議論をインドのイッチャーナンガラ村でしていたそうです。　彼らは一切の煩悩（人間には１０８個あると言われている汚れた欲望）をすべて断ち切って誠に人として正しい心で持って正しく道を歩むことに努力し専念していた者たちでありましたが　更に上人（徳の高い僧侶）であるその婆羅門という賢者（煩悩を完全に滅した覚者）になるべく行為を　ああでもない　こうでもないと　まだ誠の賢者に成れていない弟子がいくら議論したところで埒が明かない場面が有ります。　それで　真理（智慧を完成し　世を知り　宇宙を知り　全ての苦しみから解放され　心が安定した悟りの境地）を得ておられるブッダことお釈迦様にその真意を聞くことにしたのです。　バラモン（婆羅門）とは僧侶のことなのですが　単なる僧侶ではなく真正しい心で正しい行為をする僧侶のことなのです。　そこでイッチャーナンガラ村の林に住んでおられたブッダ（釈尊）のところへ赴いたのです。　そこで彼らは釈尊に恭しくバラモンへとなる人格者の道を尋ねたのです。　それで釈尊は丁寧に前置きの喩えをいくつか述べながら　和訳本の６１８番目に語られている「人間のうちで司祭の職によって生活する者があれば　かれは司祭者であって　バラモンではないと知れ。　ヴァーセッタよ。」と諭しています。　司祭者とは僧侶や教祖や神父や牧師のことです。　その後にバラモンとなっている人格者の詳細を多く述べていて　和訳本の６５０番目には　人は「生まれによってバラモンとなるのではない。　行為によってバラモンなのである。」と説いています。　つまり家柄や家系の職業や地位や名誉によってバラモンとなるのではなく　苦しみを乗り越え　高い智慧を持ち　隣人や他人に苦しみを与えることなく　性愛や食欲に貪ることなく　怒ることなく　愚かな行いをすることなく　慎み深く人に接し　正しい心がけと生き方の戒律を守り　歓楽や快楽を捨て　欲望や愛執を断ち切り　煩悩を滅した者がバラモンであると説いています。　つまりお釈迦様は　出家者であろうが在家者であろうが　有職者であろうが無職者であろうが　聖職者であろうが一般人であろうが　僧侶であろうが凡人であろうが　貴族であろうが平民であろうが　家柄や職業に一切関係なく　日常　その者が歩んでいる正しい行為そのものによってバラモンであると言ってます。　つまり司祭者（僧侶や教祖など）というのは単にその人の職業であってバラモンで有るか否かは分からないということなのです。　人はこのことをよ～く理解しておれば　いかなる宗教でも　その法を説くその僧侶や教祖らの生まれ育ちや言葉に魅了されたり惹かれることなく　尊師と呼ばれる彼らの日常の行為を観察します。　そうすれば決して悪質な聖職者や司祭者に魅了されたり惹かれることはないのです。　<br />　　<a name="more"></a>

]]><![CDATA[
]]></content:encoded>
            <category>日記</category>
      <author>浅田先生</author>
      <guid isPermaLink="false">blog:https://blog.seesaa.jp,shouzanin/517627695</guid>
                </item>
        <item>
      <link>https://shouzanin.seesaa.net/article/510739453.html</link>
      <title>魂が身体から離れた？</title>
      <pubDate>Tue, 25 Feb 2025 03:39:03 +0900</pubDate>
            <description>実は私は５１歳の時　奈良県の天川村にある大峰山の山頂から下山の途中で滑落しました。　その事故のニュースは奈良のテレビでも報道され　産経新聞等にも記載されました。　私の住所・氏名・年齢は勿論　職業等まで記載されましたので一部の知人・友人をはじめ　親戚や職場仲間から家族に電話が入ったようで恥ずかしいばかりでした。　現今　漸くネットではもうその事故の情報は消えているのでやっと安堵しています。　大峰山は修験道で有名な霊山なのですが　私は甥や友達二人と一緒に修験道体験のため　ある大峰講..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
実は私は５１歳の時　奈良県の天川村にある大峰山の山頂から下山の途中で滑落しました。　その事故のニュースは奈良のテレビでも報道され　産経新聞等にも記載されました。　私の住所・氏名・年齢は勿論　職業等まで記載されましたので一部の知人・友人をはじめ　親戚や職場仲間から家族に電話が入ったようで恥ずかしいばかりでした。　現今　漸くネットではもうその事故の情報は消えているのでやっと安堵しています。　大峰山は修験道で有名な霊山なのですが　私は甥や友達二人と一緒に修験道体験のため　ある大峰講というベテランの役行者ら約１０名が指揮・指導する組織に参加しました。　参加者らは約５０名　合わせて６０名ほどの修験道ツアーになりました。　それは修験道を志す在家信仰として概ね白装束姿の人々をはじめ　軽装でも白衣をまとい　声を出して「懺悔　懺悔　六根清浄」と独特の御経を何度も唱えながら険しい山道を駆け上がる女人禁制の心身修行です。　その日は７月７日の七夕の日でした。　しかしながら当日の大阪出発は早朝から大雨で雷が鳴り響く日でもあり　危険なので一時は中止になるかもしれなかったのですが　わざわざその日のために遠い他府県から来られた人も多く　現地では小雨になることを期待し　せっかくなので決行することになったのです。　修験道の目的は山頂にある大峰山寺には金剛蔵王大権現が祭られており　その御本尊に参拝する道のりです。　その道のりの順路で行場の「西の覗き」と呼ばれる場所があり　そこで修験道最大の恐怖の捨身行があるわけですが　二人のベテランの先達らからロープを肩から巻いてもらい　約２メートル下の岩穴に祭られている不動明王を拝むために　頭を逆さに崖から真っ逆さまに吊るされる荒行です。　その崖下は数百メートル　合わせて三名の先達がそのロープを握りしめて　しっかりと支えてはくれているのですが万が一　ロープが肩から外れたり　切れたりすると間違いなく落下して即死です。　過去にそういった事故が有って何名かが落下して命を落としている場所なのです。　そこで「親孝行するか！」「浮気はしないか！」と先達らにやや厳しく問い詰められます。　恐怖のあまり「はい　親孝行します！」「はい　浮気はいたしません！」などと誓わされるのは皆さんもテレビのドキュメンタリーなどで見たことがあるでしょう。　さて私はそこでは無事にその行は終えたのですが下山時にはまた大雨の雷でたいへんな天候になったため　その６０名のグループは険しい道は避け　安全な道で下山することになりました。　しかしその途中で友達の一人の登山靴が壊れてしまったので私が修理している間に　私と甥ともうひとりの友達　それに親子連れ三名と一人の先達がそのグループから外れて迷子になってしまったのです。　確かに酷い大雨の上　前方は霧がかかっていたことも有り辺りが見えにくかったのですが　その先達はどうやら元々山道に疎い方のようでして　安全な帰り道が分からなくなったようなのです。　私たちは当然　大峰山の修験道で歩く山道には全くの素人ですので先達が導く方向について行くしかありませんでした。　あちらでもない　こちらでもないと先達が道を迷っているうちにとうとう安全な下り道から外れてしまったようです。　とにかく藪に囲まれた険しい山道でしたが下っていくしかありませんでした。　それで漸く広々とした場所に出てきました。　しかしそこは谷の深い鐘掛岩というところでした。　先達は「やや危険ですが　この大雨と雷の鳴り響く天候では早く下山しないと危険なので　ここを下りてゆくしかありません！」というようなことを言って私たちを奮い立たせたのですが　直ぐ左手際には深い谷底の見える崖っぷちのところでした。　そこにはかなり昔に作られている苔で茂り腐ったような古い木造り階段（原則使用禁止の階段）しかなかったのです。　先達は勿論　滑りにくい足袋を履いておられました。　私たちに何度も注意を促しながら先頭に立ち　その木造階段の下り方の手本を見せながらゆっくりとその階段を下り始めました。　先達は「慌てずにゆっくりと　しゃがみながら下りてくださいよ！」と言いながら一段一段踏み込んで下山してゆきました。　次に続いたのが私です。　しかし数段下りると左手の木造手摺が１メートルほど折れて無くなっていました。　なので私はその１メートル先の手摺に手を伸ばしながら左足をも同時に一歩踏み下ろしたのです。　その時です！　私の目の前が全てグレー色の世界に変わりました。　そして暫くしてそのグレー色の世界から薄暗い世界に入り　やがて真っ暗闇の世界に入っていったのです。　私は急に何が何だか訳（理由）が分からなくなりましたが　私の意識といいましょうか…　突然その日に宿泊する旅館でお風呂から上がり　夜が来て就寝している姿に変わったのです。　私は安心して「あ～　良かったぁ～　やれやれあの凄まじい天候から無事に下山できたんだなぁ」と思い安心して寝ていました。　しかしながら就寝中とはいえ何やらアクロバットをしているような不思議な感覚になっている自分に気づき　夢を見ているにしても随分と現実性の高い夢だなぁ～と思っていました。　そしたら急に左胸に車がぶつかってきたような強い衝撃を感じたのです。　ただ夢の中だから全く痛くはなかったのですが　ビックリして夢から覚めて現実に戻ったような感じにもなりました。　そうすればまたグレー色の世界に出てきたのです。　次に現れてきたのは昔　私が幼稚園児や小学校低学年生のころ　私をとても大事にしてくれた級友のお母さん　その次に私をとてもよく可愛がってくれた実家の前の工場のお兄さん　というように私が幼いころに毎回たくさんのお菓子や食べ物を与えてくれたり　あちこちの遊園地に連れて行ってくれたり　映画館に連れて行ってくれたりと　昔の幼少の私をとても労わり可愛がってくれた心優しい人々ばかりが出現してきました。　今思えば大人になった私がその恩人たちにその頃のお礼も言えないままなのです。　まだご存命なのか？　ご存命ならどこにおられるのかも知れず　幼少期から今日まで一度もお会い出来ることもなく　全く感謝しきれていない人々が走馬灯のように次々と現れるのです。　そして最後には数年前に亡くなった優しい伯母様（母の姉）が現れたのです。　そんな映像が流れ終わると今度は身体が大きく揺れている現実感を浴びせられました。　私はふと「あれ？　故人が出てくるということは　これはもしかしたらあの世の入口？　これはもしかしたら夢ではなく自分は実際　現実にあの崖から滑落でもしていてもうすぐ死ぬのではないか？」と気づき始めました。　そうすると次には何度も何度も回転して宙に浮いているような感覚になりました。　そう感じた時に急に呼吸が徐々にし難くなったのです。　私は夢の中で車にぶつけられたのではなく　現実に山肌の岩にぶつかったのではないか？　やはり滑落しているに違いない！と確信したのです。　それに気づくまで私はまったく別の世界に居たのです。　後日よく考えてみると　おそらく滑落中に私の魂は先に私の身体から抜け出して旅館に帰っていたのかもしれないと思いました。　皆さんはよく臨死体験だとか幽体離脱という言葉を聞いたことがあるでしょう。　実際には滑落している時間は数十秒間か１分間かの出来事だったでしょうね。　それぐらいの短い時間の中で一瞬にして魂は抜けていたのだろう～と思いました。　つまり幽体離脱していたようです。　しかし私の印象としては滑落時間　それは１時間ぐらいあったような感覚でした。　なぜなら滑落の最中に私は旅館の温泉に入って就寝していたのですから…　それにそれだけ多くのことを神秘的体験していたのですから…　不思議なことに今思えば滑落中はとてつもないぐらいに時間を遅く感じていました。　その上　身体が回転している状況を含め　何もかもがすべてスローモーションだったのです。　話は戻り　一連のそのような現状が終わった後　気が付いたら何かに引っ掛かって私の身体は滑落から止まっていました。　その時にやっと目の前がグレー色の世界から本来の山中の景色に戻ったのです。　そして走馬灯を見ている時間を含め　それまで全く感じなかった痛みや呼吸困難という症状は　滑落というその現実を認識した途端に発症し始め　とても息が苦しくなり　かなり辛い呼吸困難に陥ってしまいました。　その状況を目の前で見た甥は顔面蒼白になりながらも　まずその滑りやすい木造階段を下まで降りてゆき　途中からは危険を顧みずその鐘掛岩の崖ぶちを這いつくばって　現場に落ちた私を真っ先に探しに来てくれました。　先達からは危険だから探しに行くのは止められていたようですが　やはり血筋だけあって我が身の危険を顧みず　助けにきてくれたようです。　そして私を見つけて携帯電話で私の滑落最終地点を先達らに伝えていたようです。　かなり時間が経ってから助けに来てくれたのはフル装備のレスキュー隊と医師です。　私は朦朧とした意識の中でまず医師に脊髄は大丈夫ですか？と尋ねました。　その医師は私に様々な医学的検査をしてから「脊髄は大丈夫！」と言ってくれました。　私はその言葉を聞いて安堵したのと同時に意識を失いました。　しかしながら私のその身体は血まみれで複数の肋骨骨折や肺挫傷による血気胸を患いました。　その後　トロッコに私を担ぎ込み下山させてから　麓に待機していた救急車で奈良県立医科大学附属病院に運ばれて手術を受け長期間入院しました。　数か月後　当時の先達たちにお聞きしたところ　山の事故の関係者らが私の滑落地点（鐘掛岩の起点）から測定した結果１００メートルぐらい私は滑落したそうです。　「あの木造階段の下山時　俺はどうなったのか？　なぜ滑落したのか？」と甥に聞いたら　左足から階段を滑って瞬く間に深い谷に落ちて行ったということでした。　まさに九死に一生の事故でした。　幸いなことは　大雨でしたので予め　背中にはバスタオルや着替えの服を入れたリックサックを背負っていたおかげで　岩に何度も背中を打ち付けたとはいえ　脊髄は守られたようです。　ただ　もう二度と大峰山には登りたくないです( ´艸｀)　　　<a></a>

]]></itunes:summary>
      <content:encoded><![CDATA[
実は私は５１歳の時　奈良県の天川村にある大峰山の山頂から下山の途中で滑落しました。　その事故のニュースは奈良のテレビでも報道され　産経新聞等にも記載されました。　私の住所・氏名・年齢は勿論　職業等まで記載されましたので一部の知人・友人をはじめ　親戚や職場仲間から家族に電話が入ったようで恥ずかしいばかりでした。　現今　漸くネットではもうその事故の情報は消えているのでやっと安堵しています。　大峰山は修験道で有名な霊山なのですが　私は甥や友達二人と一緒に修験道体験のため　ある大峰講というベテランの役行者ら約１０名が指揮・指導する組織に参加しました。　参加者らは約５０名　合わせて６０名ほどの修験道ツアーになりました。　それは修験道を志す在家信仰として概ね白装束姿の人々をはじめ　軽装でも白衣をまとい　声を出して「懺悔　懺悔　六根清浄」と独特の御経を何度も唱えながら険しい山道を駆け上がる女人禁制の心身修行です。　その日は７月７日の七夕の日でした。　しかしながら当日の大阪出発は早朝から大雨で雷が鳴り響く日でもあり　危険なので一時は中止になるかもしれなかったのですが　わざわざその日のために遠い他府県から来られた人も多く　現地では小雨になることを期待し　せっかくなので決行することになったのです。　修験道の目的は山頂にある大峰山寺には金剛蔵王大権現が祭られており　その御本尊に参拝する道のりです。　その道のりの順路で行場の「西の覗き」と呼ばれる場所があり　そこで修験道最大の恐怖の捨身行があるわけですが　二人のベテランの先達らからロープを肩から巻いてもらい　約２メートル下の岩穴に祭られている不動明王を拝むために　頭を逆さに崖から真っ逆さまに吊るされる荒行です。　その崖下は数百メートル　合わせて三名の先達がそのロープを握りしめて　しっかりと支えてはくれているのですが万が一　ロープが肩から外れたり　切れたりすると間違いなく落下して即死です。　過去にそういった事故が有って何名かが落下して命を落としている場所なのです。　そこで「親孝行するか！」「浮気はしないか！」と先達らにやや厳しく問い詰められます。　恐怖のあまり「はい　親孝行します！」「はい　浮気はいたしません！」などと誓わされるのは皆さんもテレビのドキュメンタリーなどで見たことがあるでしょう。　さて私はそこでは無事にその行は終えたのですが下山時にはまた大雨の雷でたいへんな天候になったため　その６０名のグループは険しい道は避け　安全な道で下山することになりました。　しかしその途中で友達の一人の登山靴が壊れてしまったので私が修理している間に　私と甥ともうひとりの友達　それに親子連れ三名と一人の先達がそのグループから外れて迷子になってしまったのです。　確かに酷い大雨の上　前方は霧がかかっていたことも有り辺りが見えにくかったのですが　その先達はどうやら元々山道に疎い方のようでして　安全な帰り道が分からなくなったようなのです。　私たちは当然　大峰山の修験道で歩く山道には全くの素人ですので先達が導く方向について行くしかありませんでした。　あちらでもない　こちらでもないと先達が道を迷っているうちにとうとう安全な下り道から外れてしまったようです。　とにかく藪に囲まれた険しい山道でしたが下っていくしかありませんでした。　それで漸く広々とした場所に出てきました。　しかしそこは谷の深い鐘掛岩というところでした。　先達は「やや危険ですが　この大雨と雷の鳴り響く天候では早く下山しないと危険なので　ここを下りてゆくしかありません！」というようなことを言って私たちを奮い立たせたのですが　直ぐ左手際には深い谷底の見える崖っぷちのところでした。　そこにはかなり昔に作られている苔で茂り腐ったような古い木造り階段（原則使用禁止の階段）しかなかったのです。　先達は勿論　滑りにくい足袋を履いておられました。　私たちに何度も注意を促しながら先頭に立ち　その木造階段の下り方の手本を見せながらゆっくりとその階段を下り始めました。　先達は「慌てずにゆっくりと　しゃがみながら下りてくださいよ！」と言いながら一段一段踏み込んで下山してゆきました。　次に続いたのが私です。　しかし数段下りると左手の木造手摺が１メートルほど折れて無くなっていました。　なので私はその１メートル先の手摺に手を伸ばしながら左足をも同時に一歩踏み下ろしたのです。　その時です！　私の目の前が全てグレー色の世界に変わりました。　そして暫くしてそのグレー色の世界から薄暗い世界に入り　やがて真っ暗闇の世界に入っていったのです。　私は急に何が何だか訳（理由）が分からなくなりましたが　私の意識といいましょうか…　突然その日に宿泊する旅館でお風呂から上がり　夜が来て就寝している姿に変わったのです。　私は安心して「あ～　良かったぁ～　やれやれあの凄まじい天候から無事に下山できたんだなぁ」と思い安心して寝ていました。　しかしながら就寝中とはいえ何やらアクロバットをしているような不思議な感覚になっている自分に気づき　夢を見ているにしても随分と現実性の高い夢だなぁ～と思っていました。　そしたら急に左胸に車がぶつかってきたような強い衝撃を感じたのです。　ただ夢の中だから全く痛くはなかったのですが　ビックリして夢から覚めて現実に戻ったような感じにもなりました。　そうすればまたグレー色の世界に出てきたのです。　次に現れてきたのは昔　私が幼稚園児や小学校低学年生のころ　私をとても大事にしてくれた級友のお母さん　その次に私をとてもよく可愛がってくれた実家の前の工場のお兄さん　というように私が幼いころに毎回たくさんのお菓子や食べ物を与えてくれたり　あちこちの遊園地に連れて行ってくれたり　映画館に連れて行ってくれたりと　昔の幼少の私をとても労わり可愛がってくれた心優しい人々ばかりが出現してきました。　今思えば大人になった私がその恩人たちにその頃のお礼も言えないままなのです。　まだご存命なのか？　ご存命ならどこにおられるのかも知れず　幼少期から今日まで一度もお会い出来ることもなく　全く感謝しきれていない人々が走馬灯のように次々と現れるのです。　そして最後には数年前に亡くなった優しい伯母様（母の姉）が現れたのです。　そんな映像が流れ終わると今度は身体が大きく揺れている現実感を浴びせられました。　私はふと「あれ？　故人が出てくるということは　これはもしかしたらあの世の入口？　これはもしかしたら夢ではなく自分は実際　現実にあの崖から滑落でもしていてもうすぐ死ぬのではないか？」と気づき始めました。　そうすると次には何度も何度も回転して宙に浮いているような感覚になりました。　そう感じた時に急に呼吸が徐々にし難くなったのです。　私は夢の中で車にぶつけられたのではなく　現実に山肌の岩にぶつかったのではないか？　やはり滑落しているに違いない！と確信したのです。　それに気づくまで私はまったく別の世界に居たのです。　後日よく考えてみると　おそらく滑落中に私の魂は先に私の身体から抜け出して旅館に帰っていたのかもしれないと思いました。　皆さんはよく臨死体験だとか幽体離脱という言葉を聞いたことがあるでしょう。　実際には滑落している時間は数十秒間か１分間かの出来事だったでしょうね。　それぐらいの短い時間の中で一瞬にして魂は抜けていたのだろう～と思いました。　つまり幽体離脱していたようです。　しかし私の印象としては滑落時間　それは１時間ぐらいあったような感覚でした。　なぜなら滑落の最中に私は旅館の温泉に入って就寝していたのですから…　それにそれだけ多くのことを神秘的体験していたのですから…　不思議なことに今思えば滑落中はとてつもないぐらいに時間を遅く感じていました。　その上　身体が回転している状況を含め　何もかもがすべてスローモーションだったのです。　話は戻り　一連のそのような現状が終わった後　気が付いたら何かに引っ掛かって私の身体は滑落から止まっていました。　その時にやっと目の前がグレー色の世界から本来の山中の景色に戻ったのです。　そして走馬灯を見ている時間を含め　それまで全く感じなかった痛みや呼吸困難という症状は　滑落というその現実を認識した途端に発症し始め　とても息が苦しくなり　かなり辛い呼吸困難に陥ってしまいました。　その状況を目の前で見た甥は顔面蒼白になりながらも　まずその滑りやすい木造階段を下まで降りてゆき　途中からは危険を顧みずその鐘掛岩の崖ぶちを這いつくばって　現場に落ちた私を真っ先に探しに来てくれました。　先達からは危険だから探しに行くのは止められていたようですが　やはり血筋だけあって我が身の危険を顧みず　助けにきてくれたようです。　そして私を見つけて携帯電話で私の滑落最終地点を先達らに伝えていたようです。　かなり時間が経ってから助けに来てくれたのはフル装備のレスキュー隊と医師です。　私は朦朧とした意識の中でまず医師に脊髄は大丈夫ですか？と尋ねました。　その医師は私に様々な医学的検査をしてから「脊髄は大丈夫！」と言ってくれました。　私はその言葉を聞いて安堵したのと同時に意識を失いました。　しかしながら私のその身体は血まみれで複数の肋骨骨折や肺挫傷による血気胸を患いました。　その後　トロッコに私を担ぎ込み下山させてから　麓に待機していた救急車で奈良県立医科大学附属病院に運ばれて手術を受け長期間入院しました。　数か月後　当時の先達たちにお聞きしたところ　山の事故の関係者らが私の滑落地点（鐘掛岩の起点）から測定した結果１００メートルぐらい私は滑落したそうです。　「あの木造階段の下山時　俺はどうなったのか？　なぜ滑落したのか？」と甥に聞いたら　左足から階段を滑って瞬く間に深い谷に落ちて行ったということでした。　まさに九死に一生の事故でした。　幸いなことは　大雨でしたので予め　背中にはバスタオルや着替えの服を入れたリックサックを背負っていたおかげで　岩に何度も背中を打ち付けたとはいえ　脊髄は守られたようです。　ただ　もう二度と大峰山には登りたくないです( ´艸｀)　　　<a name="more"></a>

]]><![CDATA[
]]></content:encoded>
            <category>日記</category>
      <author>浅田先生</author>
      <guid isPermaLink="false">blog:https://blog.seesaa.jp,shouzanin/510739453</guid>
                </item>
        <item>
      <link>https://shouzanin.seesaa.net/article/508579698.html</link>
      <title>先祖供養の大切さ</title>
      <pubDate>Fri, 10 Jan 2025 03:20:45 +0900</pubDate>
            <description>新年あけましておめでとうございます。　２０２５年はどのような年になるでしょうか？　世界での戦争や飢餓などが無くなり穏やかな年になるよう願っております。　さて今回はよくお寺用語でお坊様が故人において誰々はもう「浮かばれている」という言葉を耳にしたことはありませんか？　浮かばれているとは要するに霊界に渡り彼岸に至っているという意味で信者に伝えていることがほとんどだと思います。　彼岸とは　あの世（霊界）の安らぎの境地または極楽浄土といったような意味で解釈されています。　ただ故人が皆..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
新年あけましておめでとうございます。　２０２５年はどのような年になるでしょうか？　世界での戦争や飢餓などが無くなり穏やかな年になるよう願っております。　さて今回はよくお寺用語でお坊様が故人において誰々はもう「浮かばれている」という言葉を耳にしたことはありませんか？　浮かばれているとは要するに霊界に渡り彼岸に至っているという意味で信者に伝えていることがほとんどだと思います。　彼岸とは　あの世（霊界）の安らぎの境地または極楽浄土といったような意味で解釈されています。　ただ故人が皆　亡くなられてやがて自然に彼岸に至っているか否か　それは誰にも分かりません。　なぜならあの世（霊界）に行ってその故人に会って　帰ってきたその故人の知人は誰一人いないのですから。　だた　お坊様などはそう言って遺族を慰めている　または安心させているのでしょう。　よくテレビや書物なんかで日本あるいは世界で優れたサイキック（霊能者）などの中で　よくあの世のことを語る人がおられますが　それは単にその霊能者が霊視でそのように感じているか　思っていることを人々に伝えているだけなのです。　あの世のことを本当に知り　あの世の真実を教え　語っていた方は過去においても今においてもただお一人　釈尊こと　お釈迦様だけなのです。　釈尊も理由（わけ）が有ってあの世に関する明解な詳細は語っていませんが五道（天上道・人間道・畜生道・餓鬼道・地獄道）または六道（天上道・人間道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道）の世界がありその内容や種類においては　舎利弗尊者や目連尊者をはじめ　当時の仏弟子たちや庶民の信者たちに説いておられました。　また彼岸もあの世（霊界）にあると明言されておられます。　つまりこれら五道や六道があの世といわれる霊界という世界なのです。　ではよく近代の霊能者で亡くなられた親族の霊体（魂の霊位と言う）が「亡くなられた誰々があなたの肩の横に居られますよ」と言ってそのご遺族に話している場面などをテレビで見られたり　書物で読まれたりしている方も多いと思いますが　ではその霊体がおられる世界は何という世界なのでしょうか？　お釈迦様はこの世（現界）とあの世（霊界）を完全に切り離して語られておりますので　この世（現界）であの世（霊界）にいる故人の霊体の姿を観れるなんてことは一言も語られておりません。　そういうことですので　霊体などを語る専門家らによるとそれは専門用語で幽界と言っているようです。　つまり霊界に旅立ってゆく前の世界ということになるのでしょうか。　もしそうだとすればまだあの世（霊界）に旅立たれていないこの世（現界）に近い場所になろうかと思いますので　唯一の佛様　釈尊のお言葉からすると　その故人はまだ浮かばれているとは言えないことになります。　なぜなら霊界こそが浮かばれている世界であって　そこに彼岸が有るのですから。　お釈迦様の真実の言葉による総集である原始仏教の中では説かれておりませんが　お釈迦さまの仏弟子で優れた神通力（透視能力や霊視能力）のある目連尊者が亡くなって彼岸に至れていると思っていた自分の母が地獄に落ちて逆さ吊りにされていたのです。　その上　ガリガリにやせ細っていました。　悲痛な思いで驚いた目連尊者は直ちに食物をある仏門精舎にてお供えして心身ともにあの世（霊界）にいる母を助けるために心願成就したところ　神通力で再びあの世の母を観ました。　そうすると母が供物されたその食べものを口に入れようとするとすべて火の玉に変化するというお話を描いた盂蘭盆経は有名ですね。　それも霊界での出来事の話であって目連尊者は現界に生きている人間の傍や周囲あるいは天空などを見つめて　そのような母の姿は観ておられないのです。　あくまでも瞑想の中での神通力で観られたようです。　では仏教からすると霊能者のような現界の人が交信できる故人は霊界に居るのではなく　まだ幽界に居ることになります。　そうなると　どうすれば亡くなられた故人に安心して本当の世界＝あの世（霊界）に帰っていただくか　つまり霊体となった姿で霊界に旅立ってもらうのか　あるいは旅立たせてあげるのかということになります。　皆さんが先祖供養や年忌という言葉をよく耳にされてお寺で成されている法事が有りますね。　それらの真意の目的は　まだ幽界で彷徨っている故人や　あるいはあの世の五道（小乗仏教による世界）または六道（大乗仏教による世界）において　まだ辛苦の連なる思いでおられる故人を　まずはこの世から霊界へ　あるいはすでに霊界に渡られたのであれば一刻も早く安楽の境地へ導いてあげるための儀式なのです。　法華経など古い仏教本などによると　あの世（霊界）の人間道の世界に入れば　また地球上のどこかの国のどこかの人間として輪廻転生すると言われています。　もしかしたら違う銀河の星にまた人間の様な姿？で輪廻転生させられるかもしれません…　そんなことはどれほど有名な科学者でも一切解明できない話しですが…　いずれにしても　また心をより清く磨くためとも　前世で尽くせなかったことへの新たな心身の修行のためとも言われています。　残念ながらその真意はお釈迦の原始仏教では何も語られておりませんので誰にも分かりません。　ただし人間には前世の生きざまがあって今世が有り　今世の生きざまがあって来世があるというように　人間は何度も何度も輪廻転生をして修行に修行を重ねて終には菩薩の心を育て持ち　この輪廻転生のサイクルから解脱しなければならないと　はっきりと明言されておられます。　要するに人間が菩薩の心を持つことが卒業ということであるならば　とりあえずは故人を愛しく思い　故人に精進できない幽界にいつまでも留まることなく　この世（現界）に生きていた時の愛執や執着から一日も早く離れることを納得して頂き　あの世（霊界）に自ら旅立ってもらうため　あるいは見送ってあげるためには　年忌などを含めた年数を重ねる先祖供養をしっかりして　無事にまた輪廻転生をさせてあげなければならないということになるでしょう。<a></a>

]]></itunes:summary>
      <content:encoded><![CDATA[
新年あけましておめでとうございます。　２０２５年はどのような年になるでしょうか？　世界での戦争や飢餓などが無くなり穏やかな年になるよう願っております。　さて今回はよくお寺用語でお坊様が故人において誰々はもう「浮かばれている」という言葉を耳にしたことはありませんか？　浮かばれているとは要するに霊界に渡り彼岸に至っているという意味で信者に伝えていることがほとんどだと思います。　彼岸とは　あの世（霊界）の安らぎの境地または極楽浄土といったような意味で解釈されています。　ただ故人が皆　亡くなられてやがて自然に彼岸に至っているか否か　それは誰にも分かりません。　なぜならあの世（霊界）に行ってその故人に会って　帰ってきたその故人の知人は誰一人いないのですから。　だた　お坊様などはそう言って遺族を慰めている　または安心させているのでしょう。　よくテレビや書物なんかで日本あるいは世界で優れたサイキック（霊能者）などの中で　よくあの世のことを語る人がおられますが　それは単にその霊能者が霊視でそのように感じているか　思っていることを人々に伝えているだけなのです。　あの世のことを本当に知り　あの世の真実を教え　語っていた方は過去においても今においてもただお一人　釈尊こと　お釈迦様だけなのです。　釈尊も理由（わけ）が有ってあの世に関する明解な詳細は語っていませんが五道（天上道・人間道・畜生道・餓鬼道・地獄道）または六道（天上道・人間道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道）の世界がありその内容や種類においては　舎利弗尊者や目連尊者をはじめ　当時の仏弟子たちや庶民の信者たちに説いておられました。　また彼岸もあの世（霊界）にあると明言されておられます。　つまりこれら五道や六道があの世といわれる霊界という世界なのです。　ではよく近代の霊能者で亡くなられた親族の霊体（魂の霊位と言う）が「亡くなられた誰々があなたの肩の横に居られますよ」と言ってそのご遺族に話している場面などをテレビで見られたり　書物で読まれたりしている方も多いと思いますが　ではその霊体がおられる世界は何という世界なのでしょうか？　お釈迦様はこの世（現界）とあの世（霊界）を完全に切り離して語られておりますので　この世（現界）であの世（霊界）にいる故人の霊体の姿を観れるなんてことは一言も語られておりません。　そういうことですので　霊体などを語る専門家らによるとそれは専門用語で幽界と言っているようです。　つまり霊界に旅立ってゆく前の世界ということになるのでしょうか。　もしそうだとすればまだあの世（霊界）に旅立たれていないこの世（現界）に近い場所になろうかと思いますので　唯一の佛様　釈尊のお言葉からすると　その故人はまだ浮かばれているとは言えないことになります。　なぜなら霊界こそが浮かばれている世界であって　そこに彼岸が有るのですから。　お釈迦様の真実の言葉による総集である原始仏教の中では説かれておりませんが　お釈迦さまの仏弟子で優れた神通力（透視能力や霊視能力）のある目連尊者が亡くなって彼岸に至れていると思っていた自分の母が地獄に落ちて逆さ吊りにされていたのです。　その上　ガリガリにやせ細っていました。　悲痛な思いで驚いた目連尊者は直ちに食物をある仏門精舎にてお供えして心身ともにあの世（霊界）にいる母を助けるために心願成就したところ　神通力で再びあの世の母を観ました。　そうすると母が供物されたその食べものを口に入れようとするとすべて火の玉に変化するというお話を描いた盂蘭盆経は有名ですね。　それも霊界での出来事の話であって目連尊者は現界に生きている人間の傍や周囲あるいは天空などを見つめて　そのような母の姿は観ておられないのです。　あくまでも瞑想の中での神通力で観られたようです。　では仏教からすると霊能者のような現界の人が交信できる故人は霊界に居るのではなく　まだ幽界に居ることになります。　そうなると　どうすれば亡くなられた故人に安心して本当の世界＝あの世（霊界）に帰っていただくか　つまり霊体となった姿で霊界に旅立ってもらうのか　あるいは旅立たせてあげるのかということになります。　皆さんが先祖供養や年忌という言葉をよく耳にされてお寺で成されている法事が有りますね。　それらの真意の目的は　まだ幽界で彷徨っている故人や　あるいはあの世の五道（小乗仏教による世界）または六道（大乗仏教による世界）において　まだ辛苦の連なる思いでおられる故人を　まずはこの世から霊界へ　あるいはすでに霊界に渡られたのであれば一刻も早く安楽の境地へ導いてあげるための儀式なのです。　法華経など古い仏教本などによると　あの世（霊界）の人間道の世界に入れば　また地球上のどこかの国のどこかの人間として輪廻転生すると言われています。　もしかしたら違う銀河の星にまた人間の様な姿？で輪廻転生させられるかもしれません…　そんなことはどれほど有名な科学者でも一切解明できない話しですが…　いずれにしても　また心をより清く磨くためとも　前世で尽くせなかったことへの新たな心身の修行のためとも言われています。　残念ながらその真意はお釈迦の原始仏教では何も語られておりませんので誰にも分かりません。　ただし人間には前世の生きざまがあって今世が有り　今世の生きざまがあって来世があるというように　人間は何度も何度も輪廻転生をして修行に修行を重ねて終には菩薩の心を育て持ち　この輪廻転生のサイクルから解脱しなければならないと　はっきりと明言されておられます。　要するに人間が菩薩の心を持つことが卒業ということであるならば　とりあえずは故人を愛しく思い　故人に精進できない幽界にいつまでも留まることなく　この世（現界）に生きていた時の愛執や執着から一日も早く離れることを納得して頂き　あの世（霊界）に自ら旅立ってもらうため　あるいは見送ってあげるためには　年忌などを含めた年数を重ねる先祖供養をしっかりして　無事にまた輪廻転生をさせてあげなければならないということになるでしょう。<a name="more"></a>

]]><![CDATA[
]]></content:encoded>
            <category>日記</category>
      <author>浅田先生</author>
      <guid isPermaLink="false">blog:https://blog.seesaa.jp,shouzanin/508579698</guid>
                </item>
        <item>
      <link>https://shouzanin.seesaa.net/article/507765322.html</link>
      <title>性善説と性悪説</title>
      <pubDate>Mon, 30 Dec 2024 03:17:37 +0900</pubDate>
            <description>皆様　性善説と性悪説という言葉を一度は耳にしたことが有ると思います。　これは古代中国における儒家の性善説を説く孟子と性悪説を説く荀子の言葉に由来しているのですが　その意味を勘違いをしている人をよく見かけます。　人間は生まれながらにして善人または悪人ということではなく教育の重要性を語った学説であることが一般的なのです。　昔　あるお寺の荀子派の思想の住職が「人は皆　罪を持って生まれてきているので　それを償うために修行をしなければならない。」と信者の前で説法をしておりました。　私も..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
皆様　性善説と性悪説という言葉を一度は耳にしたことが有ると思います。　これは古代中国における儒家の性善説を説く孟子と性悪説を説く荀子の言葉に由来しているのですが　その意味を勘違いをしている人をよく見かけます。　人間は生まれながらにして善人または悪人ということではなく教育の重要性を語った学説であることが一般的なのです。　昔　あるお寺の荀子派の思想の住職が「人は皆　罪を持って生まれてきているので　それを償うために修行をしなければならない。」と信者の前で説法をしておりました。　私も若かったので　そうだろうと思って聞いていました。　確かに単純に理解すると　お釈迦様（ブッダ）の教えに従うとすれば荀子の説が正しいのですが　ただ解釈に問題があることを十数年後に中国は広州に有る光孝寺に居られた高齢で高僧な住職から正しく教わり　その真意を悟りました。　その高僧から教わったのは今から３６～７年前のことになります。　孟子が正しいのか荀子が正しいのか　それには当然に答えなどはないのですが　多くの専門家らによると孟子による性善説の本意は「世には確かに悪人がいるが　本来は憐れみの道徳感情を必ず備えており　人は善の性質を持っているので充実した教育をすればよい」ということからの学説であろうということです。　また一方　多くの専門家らによると孟子の性善説は誤りと語った荀子の性悪説の本意は「人間の性質そのものは元々悪であるので教育によってしっかりと善を修得するべきだ。」ということからの学説ではないかということです。　それで私は当時の光孝寺の高僧に性善説と性悪説について尋ねたところ「人間の性質を単に善悪で語っているものではないだろう。」と言っておられました。　お釈迦様の教え（原始仏教）によっても人を善悪で解釈している文言はひとつもないのです。　光孝寺の高僧によると　この世の一部の人間には正しい教育を受けれなかったが由縁なのか？　または出会う人間関係の由縁なのか？　あるいは家庭環境や社会状況による由縁なのか？　確かに人の命をなんとも思わないような極悪非道な人間　また人を悲痛な思いに陥れたり　人に辛苦を与えたりする人間もいるけれども　ほとんどの人はそんなことをする人ではないと言っておられました。　私も現代社会を観ていてそう思います。　高僧曰く「彼らは孔子の教えを崇拝する儒教者であるが　仮に仏教における教育としては　人は誰でも他人に善いことをした恩恵があるけれども…しかし他人に悪いことをした因縁もあるかもしれない。　善悪はそれらに起因する事柄に近い。　心の修行（因果応報などを悟り反省・懺悔すること）というものは教育が根底にあり　人への情愛や慈悲愛を与えるという性質は教育によって心に修めてゆくものである。」というようなことを語っておられました。　荀子の性悪説に気持ちを寄せるとすれば　そのように理解するのが良いかもしれません。　また一方　孟子の言う性善説が間違っているというよりも　どんなに悪いことをする人間でも心のどこかに必ず他人への憐れみや慈しみという善の性質を持っているはずで　それを気づかせる教育さえすれば誰でも善人に戻れる・なれるという真意を含んでの性善説かもしれません。
　　<a></a>

]]></itunes:summary>
      <content:encoded><![CDATA[
皆様　性善説と性悪説という言葉を一度は耳にしたことが有ると思います。　これは古代中国における儒家の性善説を説く孟子と性悪説を説く荀子の言葉に由来しているのですが　その意味を勘違いをしている人をよく見かけます。　人間は生まれながらにして善人または悪人ということではなく教育の重要性を語った学説であることが一般的なのです。　昔　あるお寺の荀子派の思想の住職が「人は皆　罪を持って生まれてきているので　それを償うために修行をしなければならない。」と信者の前で説法をしておりました。　私も若かったので　そうだろうと思って聞いていました。　確かに単純に理解すると　お釈迦様（ブッダ）の教えに従うとすれば荀子の説が正しいのですが　ただ解釈に問題があることを十数年後に中国は広州に有る光孝寺に居られた高齢で高僧な住職から正しく教わり　その真意を悟りました。　その高僧から教わったのは今から３６～７年前のことになります。　孟子が正しいのか荀子が正しいのか　それには当然に答えなどはないのですが　多くの専門家らによると孟子による性善説の本意は「世には確かに悪人がいるが　本来は憐れみの道徳感情を必ず備えており　人は善の性質を持っているので充実した教育をすればよい」ということからの学説であろうということです。　また一方　多くの専門家らによると孟子の性善説は誤りと語った荀子の性悪説の本意は「人間の性質そのものは元々悪であるので教育によってしっかりと善を修得するべきだ。」ということからの学説ではないかということです。　それで私は当時の光孝寺の高僧に性善説と性悪説について尋ねたところ「人間の性質を単に善悪で語っているものではないだろう。」と言っておられました。　お釈迦様の教え（原始仏教）によっても人を善悪で解釈している文言はひとつもないのです。　光孝寺の高僧によると　この世の一部の人間には正しい教育を受けれなかったが由縁なのか？　または出会う人間関係の由縁なのか？　あるいは家庭環境や社会状況による由縁なのか？　確かに人の命をなんとも思わないような極悪非道な人間　また人を悲痛な思いに陥れたり　人に辛苦を与えたりする人間もいるけれども　ほとんどの人はそんなことをする人ではないと言っておられました。　私も現代社会を観ていてそう思います。　高僧曰く「彼らは孔子の教えを崇拝する儒教者であるが　仮に仏教における教育としては　人は誰でも他人に善いことをした恩恵があるけれども…しかし他人に悪いことをした因縁もあるかもしれない。　善悪はそれらに起因する事柄に近い。　心の修行（因果応報などを悟り反省・懺悔すること）というものは教育が根底にあり　人への情愛や慈悲愛を与えるという性質は教育によって心に修めてゆくものである。」というようなことを語っておられました。　荀子の性悪説に気持ちを寄せるとすれば　そのように理解するのが良いかもしれません。　また一方　孟子の言う性善説が間違っているというよりも　どんなに悪いことをする人間でも心のどこかに必ず他人への憐れみや慈しみという善の性質を持っているはずで　それを気づかせる教育さえすれば誰でも善人に戻れる・なれるという真意を含んでの性善説かもしれません。<br />　　<a name="more"></a>

]]><![CDATA[
]]></content:encoded>
            <category>日記</category>
      <author>浅田先生</author>
      <guid isPermaLink="false">blog:https://blog.seesaa.jp,shouzanin/507765322</guid>
                </item>
        <item>
      <link>https://shouzanin.seesaa.net/article/506686374.html</link>
      <title>命名は呪文</title>
      <pubDate>Wed, 18 Dec 2024 02:19:18 +0900</pubDate>
            <description>２０２４年もあと僅かで終わりになりますね。　来年は皆様にとってより良い年となりますように。　私はHPでも謳っているように治療施術や教員職の他　自営業として運勢相談や人生相談もしているわけですが　その中でも今回は姓名判断について少し語りたいと思います。　正式には哲理姓名学による判断というのですが姓名に漢字を用いる国民はすべてこの哲理姓名の真理を知っていただきたいと思います。　古代　中国の春秋時代にご活躍された聖人　孔子さまは四書五経の中でも学問において何よりも易経（易学）を最も..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
２０２４年もあと僅かで終わりになりますね。　来年は皆様にとってより良い年となりますように。　私はHPでも謳っているように治療施術や教員職の他　自営業として運勢相談や人生相談もしているわけですが　その中でも今回は姓名判断について少し語りたいと思います。　正式には哲理姓名学による判断というのですが姓名に漢字を用いる国民はすべてこの哲理姓名の真理を知っていただきたいと思います。　古代　中国の春秋時代にご活躍された聖人　孔子さまは四書五経の中でも学問において何よりも易経（易学）を最も尊いものとされていました。　その中でも漢字の成り立ちというものを研究し監修されておられたそうです。　今回は漢字による命名は人生を歩む上において　どれほど大切で有るかを解説してゆこうと思います。　漢字は中国から日本に伝わり漢字の本来の姿（原型）は古代文字（甲骨文字～象形文字）であることは皆様はご存じでしょう。　中国の歴史の始まりは中国最古の王朝である夏という時代～殷の時代の王朝～周の時代の王朝へと後々に時代が移り変わり　それと同時にそれら王朝時代の古代文字が夏・殷・周を超えて春秋時代に移り変わってゆく過程で金門～大篆～篆書　そして前漢・後漢の時代に入れば隷書～楷書というように徐々にその姿形を変え　その後の時代には草隷～草書　そして現代では行書というような最も簡単な姿形にその古代文字（甲骨文字や象形文字）は変化してきました。　それら古代文字（現代の漢字の原型）には大昔の中国の大群衆から心願成就としての心念が入っている漢字がほとんどすべてなのです。　それ由縁に　漢字のひとつひとつには民衆が一丸となり　様々な心念口称でもって祈願されていることまでは知らない方が多いのです。　古代の中国黄帝やその子孫（帝王）が家来に命じ　王朝の大事に至る事柄において　遣わされた神官や尊者らが民衆を集め　儒教や道教の修験道者や神仙修行者に…　あるいは祈祷師や霊媒師に…　古代文字（現代の漢字の原型）を使って神霊儀式をさせていたのです。　それを易経（易学）の中のひとつ　卜占と言います。　主には火を扱う儀式で有名なのは亀の甲羅や動物の骨に古代文字（現代の漢字の原型）を刻み込み　それを火の中に入れて焼き　亀裂の入り方で吉凶を占う卜骨や卜甲です。　天気予報などをはじめ　豊作や疫病封じのための文字　金銀・宝石など寶の在り処や王朝の政治運営繁栄のための文字　時には戦争で勝利するための文字や悪人を捕らえるための文字など　あるいは人の健康を守るための文字　衣食住安泰のための文字まで　様々な事象においてそれらを叶えるための文字を作り　それでもって占っておられたようです。　現代の漢字は勿論　その時代に作られ使用された古代文字が現今の漢字の姿形に簡略化されているだけで　中国古代の民衆らによって心念口称された祈願はひとつひとつの古代文字（現代漢字の真の姿形）の中に現今も多種多様な心念字魂として備わっているという信念の由縁に　哲理姓名学というものが専門家らによって今日もなお重視されているわけなのです。　前述したように　古代文字いわゆる現代の漢字には人を豊かにしたり　喜ばせたりする良い祈願の漢字も有れば　人を処刑したり　苦しめたり　戦わせたりする悪い祈願の漢字も有り　古代文字（漢字）の姿形が相当変化したとはいえ　そのような心念祈願が良くも悪くも現代の漢字に纏わりついていると考えられるので　漢字は一種の呪文でもあるわけなのです。　このことから生まれてきた赤ちゃんに漢字で命名するときには　単に呼び名や人気名で判断するのではなく必ず漢和辞典をはじめ　最も大事な字統辞典でひとつひとつの漢字の成り立ちとその謂れを読み観察して　悪い暗示や禍に遭遇するような不吉な漢字を選択することなく　幸福感を引き込む気品豊かで喜ばしい意味合いの漢字で有るか否かをしっかり調べてから良好な漢字を選択して命名して頂きたいと思います。<a></a>

]]></itunes:summary>
      <content:encoded><![CDATA[
２０２４年もあと僅かで終わりになりますね。　来年は皆様にとってより良い年となりますように。　私はHPでも謳っているように治療施術や教員職の他　自営業として運勢相談や人生相談もしているわけですが　その中でも今回は姓名判断について少し語りたいと思います。　正式には哲理姓名学による判断というのですが姓名に漢字を用いる国民はすべてこの哲理姓名の真理を知っていただきたいと思います。　古代　中国の春秋時代にご活躍された聖人　孔子さまは四書五経の中でも学問において何よりも易経（易学）を最も尊いものとされていました。　その中でも漢字の成り立ちというものを研究し監修されておられたそうです。　今回は漢字による命名は人生を歩む上において　どれほど大切で有るかを解説してゆこうと思います。　漢字は中国から日本に伝わり漢字の本来の姿（原型）は古代文字（甲骨文字～象形文字）であることは皆様はご存じでしょう。　中国の歴史の始まりは中国最古の王朝である夏という時代～殷の時代の王朝～周の時代の王朝へと後々に時代が移り変わり　それと同時にそれら王朝時代の古代文字が夏・殷・周を超えて春秋時代に移り変わってゆく過程で金門～大篆～篆書　そして前漢・後漢の時代に入れば隷書～楷書というように徐々にその姿形を変え　その後の時代には草隷～草書　そして現代では行書というような最も簡単な姿形にその古代文字（甲骨文字や象形文字）は変化してきました。　それら古代文字（現代の漢字の原型）には大昔の中国の大群衆から心願成就としての心念が入っている漢字がほとんどすべてなのです。　それ由縁に　漢字のひとつひとつには民衆が一丸となり　様々な心念口称でもって祈願されていることまでは知らない方が多いのです。　古代の中国黄帝やその子孫（帝王）が家来に命じ　王朝の大事に至る事柄において　遣わされた神官や尊者らが民衆を集め　儒教や道教の修験道者や神仙修行者に…　あるいは祈祷師や霊媒師に…　古代文字（現代の漢字の原型）を使って神霊儀式をさせていたのです。　それを易経（易学）の中のひとつ　卜占と言います。　主には火を扱う儀式で有名なのは亀の甲羅や動物の骨に古代文字（現代の漢字の原型）を刻み込み　それを火の中に入れて焼き　亀裂の入り方で吉凶を占う卜骨や卜甲です。　天気予報などをはじめ　豊作や疫病封じのための文字　金銀・宝石など寶の在り処や王朝の政治運営繁栄のための文字　時には戦争で勝利するための文字や悪人を捕らえるための文字など　あるいは人の健康を守るための文字　衣食住安泰のための文字まで　様々な事象においてそれらを叶えるための文字を作り　それでもって占っておられたようです。　現代の漢字は勿論　その時代に作られ使用された古代文字が現今の漢字の姿形に簡略化されているだけで　中国古代の民衆らによって心念口称された祈願はひとつひとつの古代文字（現代漢字の真の姿形）の中に現今も多種多様な心念字魂として備わっているという信念の由縁に　哲理姓名学というものが専門家らによって今日もなお重視されているわけなのです。　前述したように　古代文字いわゆる現代の漢字には人を豊かにしたり　喜ばせたりする良い祈願の漢字も有れば　人を処刑したり　苦しめたり　戦わせたりする悪い祈願の漢字も有り　古代文字（漢字）の姿形が相当変化したとはいえ　そのような心念祈願が良くも悪くも現代の漢字に纏わりついていると考えられるので　漢字は一種の呪文でもあるわけなのです。　このことから生まれてきた赤ちゃんに漢字で命名するときには　単に呼び名や人気名で判断するのではなく必ず漢和辞典をはじめ　最も大事な字統辞典でひとつひとつの漢字の成り立ちとその謂れを読み観察して　悪い暗示や禍に遭遇するような不吉な漢字を選択することなく　幸福感を引き込む気品豊かで喜ばしい意味合いの漢字で有るか否かをしっかり調べてから良好な漢字を選択して命名して頂きたいと思います。<a name="more"></a>

]]><![CDATA[
]]></content:encoded>
            <category>日記</category>
      <author>浅田先生</author>
      <guid isPermaLink="false">blog:https://blog.seesaa.jp,shouzanin/506686374</guid>
                </item>
        <item>
      <link>https://shouzanin.seesaa.net/article/504576986.html</link>
      <title>因縁と四諦</title>
      <pubDate>Fri, 30 Aug 2024 01:49:46 +0900</pubDate>
            <description>仏教用語で因縁は分かっていても四諦というのを聞いたことが有りますか？　ブッダ（お釈迦様）の真理の言葉（ダンマパダ）としてまず因縁はその名の通り　何かの原因が有ってその結果が有るという意味です。　人はこの世で他人などへの行為という原因によってその恩恵または報いという結果が生じるという教えが有ります。　他人に善い行いをすればその恩恵が現世または来世で与えられる喜び　または現世と来世の両方で与えられる喜びです。　しかしながら他人に悪い行いをすればその報いは現世または来世でその苦しみ..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
仏教用語で因縁は分かっていても四諦というのを聞いたことが有りますか？　ブッダ（お釈迦様）の真理の言葉（ダンマパダ）としてまず因縁はその名の通り　何かの原因が有ってその結果が有るという意味です。　人はこの世で他人などへの行為という原因によってその恩恵または報いという結果が生じるという教えが有ります。　他人に善い行いをすればその恩恵が現世または来世で与えられる喜び　または現世と来世の両方で与えられる喜びです。　しかしながら他人に悪い行いをすればその報いは現世または来世でその苦しみを受ける　または現世と来世の両方でその苦しみを受けるという　真に因果応報が必ず有ると説いています。　その他には　人はこの世で善い因縁の行為があってこそ死後　六道でいう良い領域（天上界など）に導かれ　悪い因縁の行為の由縁に悪い領域（修羅界・畜生界・餓鬼界・地獄界など）におもむいてしまうということをブッダ（仏陀＝お釈迦様）は説かれています。　それともうひとつ　ブッダ（仏陀＝釈尊）の真理の言葉（ダンマパダ）の中に釈尊が残された真理の教えが有ります。　それは四諦という教えです。　四諦とは苦諦・集諦・滅諦・道諦　つまり般若心経に出てくる四字熟語こと苦集滅道です。　苦諦はこの世は苦しみだらけということです。　私たち人間は苦しみの世界（地球上）に住んでいるという教えです。　もちろん生きていれば楽しいことも嬉しいこともいっぱい実感するのですが　それは一時的なもので　本当は苦しみの世界でのひとときの甘美にすぎないということを私たちに悟らせておられます。　集諦とは苦しみの原因は無明（何事も無常であることを知らない無知さ）と煩悩（強い欲望や妄執）に有り　それらを悟れない知恵の低さから起こる人間の人や物への愛執（愛着）のことです。　もっとお金や宝石が欲しい　もっと良い家や車が欲しい　恋人が欲しい　夫または妻が欲しい　子供や孫が欲しい　そしてそれらをずーと愛して維持したいといったような愛執です。　滅諦とはその愛執への執着を断ち切るために　世は無常（自分の姿や形も他人の姿や形も含めて　この世の一切のものは常に変化し生滅流転して永遠不変のものは何もない現象）であることを知りなさいということです。　人は必ず老いて病気になり死ぬわけですから　どんなに楽しいことでも　どんなに嬉しいことでも　どんなに大金が有っても　どんなに美貌が有っても　それらの幸せを永遠に心や身体に持ち続けることはできず　他界すればそれらは必ず自分から離れてしまいます。　生きていて大金を持っていても心から喜べなくなり　美貌は消え失せてしまうということです。　道諦とは心身の苦しみからの解放は唯一　八正道＝八聖道（正見・正思・正語・正業・正念・正定・正命・正精進）に心がけて生きるしか道がないという教えです。　要するに中道（何事にも一方に偏ることなく強い愛執や理念や思考を止めて　心地よい調和のとれた修練や温かい情愛を備え　中正を保ちながら生きる道）の精神を持って世の中を歩みなさいということなのです。　どうでしょうか…　だがしかし　なかなか八正道一筋で生きれている人を見かけませんし　相当難しい心の修行だと思いませんか？　釈尊は当時　本当の仏教（お釈迦様の真の教え＝原始仏教）に出家した舎利弗尊者や目連尊者をはじめ　仏弟子や在家信者の庶民にそのように説法はされたものの　おそらく凡人がそう容易く八正道を成し遂げられるとは思っておられなかったでしょう。　なぜならそれが完璧に出来ている人は死後には天上界へおもむけることは勿論のこと　利他愛と慈悲愛を重ねてゆけばゆくゆくは菩薩にもなれるような人なのですから。　しかしながら釈尊が我々庶民に願うことは初めからどうせ自分はできないと思う前に　年月がかかるかもしれないけれども　諦めずに日々少しずつでも良いからできてゆくように努力して八正道に近づきなさいということだと思います。　そうすれば必ず少しずつ苦しみを乗り越えてゆくことができ　安定した気持ちで余生を送ることができるようになるということを説いておられたようです。　そうすることによって終には解脱（苦しみや迷いの心から離れ去った心境）し　彼岸（煩悩や愛執のない世界または安楽の境地）への道が開かれるということを諭しておられるのです。<a></a>

]]></itunes:summary>
      <content:encoded><![CDATA[
仏教用語で因縁は分かっていても四諦というのを聞いたことが有りますか？　ブッダ（お釈迦様）の真理の言葉（ダンマパダ）としてまず因縁はその名の通り　何かの原因が有ってその結果が有るという意味です。　人はこの世で他人などへの行為という原因によってその恩恵または報いという結果が生じるという教えが有ります。　他人に善い行いをすればその恩恵が現世または来世で与えられる喜び　または現世と来世の両方で与えられる喜びです。　しかしながら他人に悪い行いをすればその報いは現世または来世でその苦しみを受ける　または現世と来世の両方でその苦しみを受けるという　真に因果応報が必ず有ると説いています。　その他には　人はこの世で善い因縁の行為があってこそ死後　六道でいう良い領域（天上界など）に導かれ　悪い因縁の行為の由縁に悪い領域（修羅界・畜生界・餓鬼界・地獄界など）におもむいてしまうということをブッダ（仏陀＝お釈迦様）は説かれています。　それともうひとつ　ブッダ（仏陀＝釈尊）の真理の言葉（ダンマパダ）の中に釈尊が残された真理の教えが有ります。　それは四諦という教えです。　四諦とは苦諦・集諦・滅諦・道諦　つまり般若心経に出てくる四字熟語こと苦集滅道です。　苦諦はこの世は苦しみだらけということです。　私たち人間は苦しみの世界（地球上）に住んでいるという教えです。　もちろん生きていれば楽しいことも嬉しいこともいっぱい実感するのですが　それは一時的なもので　本当は苦しみの世界でのひとときの甘美にすぎないということを私たちに悟らせておられます。　集諦とは苦しみの原因は無明（何事も無常であることを知らない無知さ）と煩悩（強い欲望や妄執）に有り　それらを悟れない知恵の低さから起こる人間の人や物への愛執（愛着）のことです。　もっとお金や宝石が欲しい　もっと良い家や車が欲しい　恋人が欲しい　夫または妻が欲しい　子供や孫が欲しい　そしてそれらをずーと愛して維持したいといったような愛執です。　滅諦とはその愛執への執着を断ち切るために　世は無常（自分の姿や形も他人の姿や形も含めて　この世の一切のものは常に変化し生滅流転して永遠不変のものは何もない現象）であることを知りなさいということです。　人は必ず老いて病気になり死ぬわけですから　どんなに楽しいことでも　どんなに嬉しいことでも　どんなに大金が有っても　どんなに美貌が有っても　それらの幸せを永遠に心や身体に持ち続けることはできず　他界すればそれらは必ず自分から離れてしまいます。　生きていて大金を持っていても心から喜べなくなり　美貌は消え失せてしまうということです。　道諦とは心身の苦しみからの解放は唯一　八正道＝八聖道（正見・正思・正語・正業・正念・正定・正命・正精進）に心がけて生きるしか道がないという教えです。　要するに中道（何事にも一方に偏ることなく強い愛執や理念や思考を止めて　心地よい調和のとれた修練や温かい情愛を備え　中正を保ちながら生きる道）の精神を持って世の中を歩みなさいということなのです。　どうでしょうか…　だがしかし　なかなか八正道一筋で生きれている人を見かけませんし　相当難しい心の修行だと思いませんか？　釈尊は当時　本当の仏教（お釈迦様の真の教え＝原始仏教）に出家した舎利弗尊者や目連尊者をはじめ　仏弟子や在家信者の庶民にそのように説法はされたものの　おそらく凡人がそう容易く八正道を成し遂げられるとは思っておられなかったでしょう。　なぜならそれが完璧に出来ている人は死後には天上界へおもむけることは勿論のこと　利他愛と慈悲愛を重ねてゆけばゆくゆくは菩薩にもなれるような人なのですから。　しかしながら釈尊が我々庶民に願うことは初めからどうせ自分はできないと思う前に　年月がかかるかもしれないけれども　諦めずに日々少しずつでも良いからできてゆくように努力して八正道に近づきなさいということだと思います。　そうすれば必ず少しずつ苦しみを乗り越えてゆくことができ　安定した気持ちで余生を送ることができるようになるということを説いておられたようです。　そうすることによって終には解脱（苦しみや迷いの心から離れ去った心境）し　彼岸（煩悩や愛執のない世界または安楽の境地）への道が開かれるということを諭しておられるのです。<a name="more"></a>

]]><![CDATA[
]]></content:encoded>
            <category>日記</category>
      <author>浅田先生</author>
      <guid isPermaLink="false">blog:https://blog.seesaa.jp,shouzanin/504576986</guid>
                </item>
        <item>
      <link>https://shouzanin.seesaa.net/article/502657490.html</link>
      <title>喜び喜ばれる</title>
      <pubDate>Thu, 14 Mar 2024 05:14:23 +0900</pubDate>
            <description>人生で最も大切なこと　それは喜ばれる人になることだと私は思っています。　なかなかつかみ難い表現かも知れませんが　それは敢えて愛されたいとか　慕われたいといったような目的をもって人を喜ばせることではありません。　また単に仕事により人に物を与えたり　世話をして感謝され　喜んでもらえる行為でもないのです。　「こうしておけば　あの人は喜んでくれるだろう。」「ああしておけば　その人は私に感謝してくれるだろう。」は自分自身への満足感であって必ずしも他人からは喜ばれる人になっていないことが..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
人生で最も大切なこと　それは喜ばれる人になることだと私は思っています。　なかなかつかみ難い表現かも知れませんが　それは敢えて愛されたいとか　慕われたいといったような目的をもって人を喜ばせることではありません。　また単に仕事により人に物を与えたり　世話をして感謝され　喜んでもらえる行為でもないのです。　「こうしておけば　あの人は喜んでくれるだろう。」「ああしておけば　その人は私に感謝してくれるだろう。」は自分自身への満足感であって必ずしも他人からは喜ばれる人になっていないことが多々あるのです。　ご自身が三徳（地位　名誉　財）を得ればそれらの権力や名声やお金で家族や友人や知人を助けられるから　一生懸命に頑張ろうということでもないのです。　ただし　仮にどんな意図ある行為でも人を救うこと　人を助けることはもちろん大切で有難い行為だと私は思っています。　が　しかし　老子はそんなことは小さいことだと諭しておられます。　それらは単に現世のひとときの喜びであって　それで本当に他者を喜ばせているとは限らないからだそうです。　なぜなら　この世には賢者が少なく　無明な者が多いからだそうです。　「三徳を得るために凄まじい努力と忍耐を乗り越えて良くやった！」とその家族は一緒に喜んでくれるかもしれませんが　他人は…　人によっては建前はそうであれ本音は　本人と一緒になって必ずしも親のように心から喜び　称賛してくれているとは限らないということですね。　ひとつ間違えば他人に嫉妬や恨みを抱かせるからです。　それらは必ずしも影の陰徳にはならないのです。　また人は三徳のどれかでも得ることが出来ればその瞬時としばらくの期間は大いなる喜びと幸せに浸れるでしょうが　時が過ぎると徐々に冷めていきませんか？　大金を得ても地位を得ても名声を得ても愛人や子供を得ても１年　３年　5年　１０年と時が経つにつれ　熱望していたある喜びを取得した当時の歓喜あふれる感動の気持ちは徐々に少なくなったり　遠ざかっていることはないでしょうか？　それらの多大な喜びが死ぬまで永遠に続くことは極めて稀だと思います。　なぜなら　それらは自分自身の多々ある欲望の内から単にひとつを叶えただけの一瞬の幸せだからなのです。　人間は元来　多種多様な欲望を持ち　次から次へとそれを追い求めてゆく生き物ですから…　それらが煩悩にならないように仏教でいう無常観を悟り　八正道に心がけない以上　特に若いうちは欲望にはキリがないものです。　家族や友人に限らず　見ず知らずの人からも喜びを与えてもらったら　その喜びは時が経てば経つほど　歳を取れば取るほど大きくなってゆかなければならないとある聖人は説いています。　仮に現今はその歓喜が無くなっていても　その時の幸せを体得できたことに感謝し　けっして忘れないこと。　それが出来ている人が賢者なのです。　また　救いや恵みを与えてあげた他人からの喜びの気持ちが消えることなく　年月が経てば経つほど遥か彼方からでも　見えない陰からでも深く感謝してくれているとすれば　それが貴い陰徳です。　それでこそ初めて喜ばれる人となりましょう。　もちろん　苦しい人や貧しい人に金員などを与えたり　優しい行為で人を労わることも尊い行為です。　さらに上においては　和光同塵を語った老子の道教によると　自身の存在感を見せずに隣人を救う行為が最も尊いということです。　つまり私が…という自身の存在感を誇示した行為ではないということですね。　通りすがりに慈愛の心でいろんな面で人助けをして「この私が多くの人々の生活を助けてあげたのですよ！」というような証や名前を残さず　影に隠れながら人目に付くことなく　やがて遠くへ去ってしまった人ということになります。　近親者同士や友人同士間での助け合いだけではなく　全く見ず知らずの人や隣人に喜びを与えてあげることが人道であり　けっして「誰々には何々してあげたから　いつか将来はその人は私にも～」という見返りを持たないこと　そういったことが人が生きてゆく上で最も大切な人道であり　それを天界は人間に求めていて　それが真に天からも喜ばれる人だと諭しています。<a></a>

]]></itunes:summary>
      <content:encoded><![CDATA[
人生で最も大切なこと　それは喜ばれる人になることだと私は思っています。　なかなかつかみ難い表現かも知れませんが　それは敢えて愛されたいとか　慕われたいといったような目的をもって人を喜ばせることではありません。　また単に仕事により人に物を与えたり　世話をして感謝され　喜んでもらえる行為でもないのです。　「こうしておけば　あの人は喜んでくれるだろう。」「ああしておけば　その人は私に感謝してくれるだろう。」は自分自身への満足感であって必ずしも他人からは喜ばれる人になっていないことが多々あるのです。　ご自身が三徳（地位　名誉　財）を得ればそれらの権力や名声やお金で家族や友人や知人を助けられるから　一生懸命に頑張ろうということでもないのです。　ただし　仮にどんな意図ある行為でも人を救うこと　人を助けることはもちろん大切で有難い行為だと私は思っています。　が　しかし　老子はそんなことは小さいことだと諭しておられます。　それらは単に現世のひとときの喜びであって　それで本当に他者を喜ばせているとは限らないからだそうです。　なぜなら　この世には賢者が少なく　無明な者が多いからだそうです。　「三徳を得るために凄まじい努力と忍耐を乗り越えて良くやった！」とその家族は一緒に喜んでくれるかもしれませんが　他人は…　人によっては建前はそうであれ本音は　本人と一緒になって必ずしも親のように心から喜び　称賛してくれているとは限らないということですね。　ひとつ間違えば他人に嫉妬や恨みを抱かせるからです。　それらは必ずしも影の陰徳にはならないのです。　また人は三徳のどれかでも得ることが出来ればその瞬時としばらくの期間は大いなる喜びと幸せに浸れるでしょうが　時が過ぎると徐々に冷めていきませんか？　大金を得ても地位を得ても名声を得ても愛人や子供を得ても１年　３年　5年　１０年と時が経つにつれ　熱望していたある喜びを取得した当時の歓喜あふれる感動の気持ちは徐々に少なくなったり　遠ざかっていることはないでしょうか？　それらの多大な喜びが死ぬまで永遠に続くことは極めて稀だと思います。　なぜなら　それらは自分自身の多々ある欲望の内から単にひとつを叶えただけの一瞬の幸せだからなのです。　人間は元来　多種多様な欲望を持ち　次から次へとそれを追い求めてゆく生き物ですから…　それらが煩悩にならないように仏教でいう無常観を悟り　八正道に心がけない以上　特に若いうちは欲望にはキリがないものです。　家族や友人に限らず　見ず知らずの人からも喜びを与えてもらったら　その喜びは時が経てば経つほど　歳を取れば取るほど大きくなってゆかなければならないとある聖人は説いています。　仮に現今はその歓喜が無くなっていても　その時の幸せを体得できたことに感謝し　けっして忘れないこと。　それが出来ている人が賢者なのです。　また　救いや恵みを与えてあげた他人からの喜びの気持ちが消えることなく　年月が経てば経つほど遥か彼方からでも　見えない陰からでも深く感謝してくれているとすれば　それが貴い陰徳です。　それでこそ初めて喜ばれる人となりましょう。　もちろん　苦しい人や貧しい人に金員などを与えたり　優しい行為で人を労わることも尊い行為です。　さらに上においては　和光同塵を語った老子の道教によると　自身の存在感を見せずに隣人を救う行為が最も尊いということです。　つまり私が…という自身の存在感を誇示した行為ではないということですね。　通りすがりに慈愛の心でいろんな面で人助けをして「この私が多くの人々の生活を助けてあげたのですよ！」というような証や名前を残さず　影に隠れながら人目に付くことなく　やがて遠くへ去ってしまった人ということになります。　近親者同士や友人同士間での助け合いだけではなく　全く見ず知らずの人や隣人に喜びを与えてあげることが人道であり　けっして「誰々には何々してあげたから　いつか将来はその人は私にも～」という見返りを持たないこと　そういったことが人が生きてゆく上で最も大切な人道であり　それを天界は人間に求めていて　それが真に天からも喜ばれる人だと諭しています。<a name="more"></a>

]]><![CDATA[
]]></content:encoded>
            <category>日記</category>
      <author>浅田先生</author>
      <guid isPermaLink="false">blog:https://blog.seesaa.jp,shouzanin/502657490</guid>
                </item>
        <item>
      <link>https://shouzanin.seesaa.net/article/500661874.html</link>
      <title>仏教は何を諭すか</title>
      <pubDate>Thu, 07 Sep 2023 21:32:31 +0900</pubDate>
            <description>釈尊（お釈迦様）は何を私たち人間に諭しているのでしょうか？　僧侶以外にも仏教信者や仏教を勉強されている人々は皆　ご存じですね。　　まず　お諭しの中心は四苦八苦（生老病死　愛別離苦　怨憎会苦　求不得苦　五蘊盛苦＝五陰盛苦）と八正道（清く誠実な心を持って世の中の出来事に惑わされないように正しく生きること）です。　このお諭し中でも愛別離苦は真に苦しい出来事だと思います。　最近では炎天下にバスの中に取り残されて亡くなってしまった幼児　または重い病気で亡くなった家族の一員　事故や天災で..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
釈尊（お釈迦様）は何を私たち人間に諭しているのでしょうか？　僧侶以外にも仏教信者や仏教を勉強されている人々は皆　ご存じですね。　　まず　お諭しの中心は四苦八苦（生老病死　愛別離苦　怨憎会苦　求不得苦　五蘊盛苦＝五陰盛苦）と八正道（清く誠実な心を持って世の中の出来事に惑わされないように正しく生きること）です。　このお諭し中でも愛別離苦は真に苦しい出来事だと思います。　最近では炎天下にバスの中に取り残されて亡くなってしまった幼児　または重い病気で亡くなった家族の一員　事故や天災で突然奪われた家族の命　愛別離苦の中でもこれら不運な出来事は残された家族にとって　気がおかしくなるほど悲しい苦しみだと思います。　その残されたご家族のことを想えば　なんとも痛ましく可哀そうで…可哀そうで　胸が痛くなりますね。　また一方では愛する恋人との破局　愛する夫や妻との離縁なども愛別離苦に当たります。　この辛い運命に何年経ってもなかなか立ち直れなく　将来の夢や希望を持てずに　生きがいを無くしている人を知っています。　私はただ共感してあげることしかできないのですが　その人たちの気持ちはよ～く分かります。　ある人が幼い子供を病気で亡くした時に　葬儀場で私たちにこう言いました。　「神仏を信仰してきたけれども　こんなに愛する子を無くしてしまって　もう…仏教は信じられない　神も佛もない！」と。　そう言いたくなるお気持ちはよく分かるのですが　ただ釈尊は誰にも「夫や妻を持ちなさい」とか「子供を持ちなさい」とは言っていないのです。　また求不得苦というお諭しがありますが　釈尊は誰にも「地位や名誉を得なさい」とか「権利や財を持ちなさい」とも言っていないのです。　それらを持つことには否定はしていませんが　ひとときの喜びや幸せはあるかもしれないが　すべて苦ですよ…と諭しておられます。　ただ涅槃前　弟子のひとり　アーナンダが人生の苦についても今一度確認をしたときに　釈尊は最後に人生は苦ではあるけれども甘美を味わえる素晴らしいものだとも説いておられます。　甘美とは　例えば良き両親や兄弟姉妹や友達を持てたこと　恋人を持てたこと　自分の家族を持てたこと　子供を持てたこと　家を持てたこと　地位や名誉や財を持てたこと　それらは素晴らしい人生だよ…とも捉えられることができるのではないかと思います。　涅槃前　釈尊は「もろもろの事象は過ぎ去るものである。　怠ることなく修行を完成なさい」と言い残して涅槃に入られました。　つまり　時は儚く世は無常　あらゆるこの世の出来事（喜びも悲しみも　幸せも不幸も含めて）は止まらずに自然に過ぎ去ってゆくのだから　たとえどのような苦しい出来事に出会ったとしても強い気持ちで耐え忍び　この世を去るまでに　日々　八正道に精進して安定した正しい心を作り上げなさい　ということになります。<a></a>

]]></itunes:summary>
      <content:encoded><![CDATA[
釈尊（お釈迦様）は何を私たち人間に諭しているのでしょうか？　僧侶以外にも仏教信者や仏教を勉強されている人々は皆　ご存じですね。　　まず　お諭しの中心は四苦八苦（生老病死　愛別離苦　怨憎会苦　求不得苦　五蘊盛苦＝五陰盛苦）と八正道（清く誠実な心を持って世の中の出来事に惑わされないように正しく生きること）です。　このお諭し中でも愛別離苦は真に苦しい出来事だと思います。　最近では炎天下にバスの中に取り残されて亡くなってしまった幼児　または重い病気で亡くなった家族の一員　事故や天災で突然奪われた家族の命　愛別離苦の中でもこれら不運な出来事は残された家族にとって　気がおかしくなるほど悲しい苦しみだと思います。　その残されたご家族のことを想えば　なんとも痛ましく可哀そうで…可哀そうで　胸が痛くなりますね。　また一方では愛する恋人との破局　愛する夫や妻との離縁なども愛別離苦に当たります。　この辛い運命に何年経ってもなかなか立ち直れなく　将来の夢や希望を持てずに　生きがいを無くしている人を知っています。　私はただ共感してあげることしかできないのですが　その人たちの気持ちはよ～く分かります。　ある人が幼い子供を病気で亡くした時に　葬儀場で私たちにこう言いました。　「神仏を信仰してきたけれども　こんなに愛する子を無くしてしまって　もう…仏教は信じられない　神も佛もない！」と。　そう言いたくなるお気持ちはよく分かるのですが　ただ釈尊は誰にも「夫や妻を持ちなさい」とか「子供を持ちなさい」とは言っていないのです。　また求不得苦というお諭しがありますが　釈尊は誰にも「地位や名誉を得なさい」とか「権利や財を持ちなさい」とも言っていないのです。　それらを持つことには否定はしていませんが　ひとときの喜びや幸せはあるかもしれないが　すべて苦ですよ…と諭しておられます。　ただ涅槃前　弟子のひとり　アーナンダが人生の苦についても今一度確認をしたときに　釈尊は最後に人生は苦ではあるけれども甘美を味わえる素晴らしいものだとも説いておられます。　甘美とは　例えば良き両親や兄弟姉妹や友達を持てたこと　恋人を持てたこと　自分の家族を持てたこと　子供を持てたこと　家を持てたこと　地位や名誉や財を持てたこと　それらは素晴らしい人生だよ…とも捉えられることができるのではないかと思います。　涅槃前　釈尊は「もろもろの事象は過ぎ去るものである。　怠ることなく修行を完成なさい」と言い残して涅槃に入られました。　つまり　時は儚く世は無常　あらゆるこの世の出来事（喜びも悲しみも　幸せも不幸も含めて）は止まらずに自然に過ぎ去ってゆくのだから　たとえどのような苦しい出来事に出会ったとしても強い気持ちで耐え忍び　この世を去るまでに　日々　八正道に精進して安定した正しい心を作り上げなさい　ということになります。<a name="more"></a>

]]><![CDATA[
]]></content:encoded>
            <category>日記</category>
      <author>浅田先生</author>
      <guid isPermaLink="false">blog:https://blog.seesaa.jp,shouzanin/500661874</guid>
                </item>
        <item>
      <link>https://shouzanin.seesaa.net/article/499248726.html</link>
      <title>人生、喜びは続かない</title>
      <pubDate>Fri, 05 May 2023 23:11:03 +0900</pubDate>
            <description>人生　喜びは続かないといってしまえば　皆さまはガクンとくるかも知れませんね。　でも残念ながらそれは真実なのですよ。　そうではありませんか？　喜びの後にその喜びが消え　でもまた新しい喜びがあるかもしれませんが　やはり消えてしまいます。　人生はそれの繰り返しですよね…　生まれてから死ぬまで一日たりとも悲しみや辛苦が無く　永遠に喜びで終わった人はひとりもいないはずです。　それが人の世の掟なのですから…　私もこれまで多くの喜びを得ましたが　多くの悲しみも得ました。　皆さまはどうでしょ..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
人生　喜びは続かないといってしまえば　皆さまはガクンとくるかも知れませんね。　でも残念ながらそれは真実なのですよ。　そうではありませんか？　喜びの後にその喜びが消え　でもまた新しい喜びがあるかもしれませんが　やはり消えてしまいます。　人生はそれの繰り返しですよね…　生まれてから死ぬまで一日たりとも悲しみや辛苦が無く　永遠に喜びで終わった人はひとりもいないはずです。　それが人の世の掟なのですから…　私もこれまで多くの喜びを得ましたが　多くの悲しみも得ました。　皆さまはどうでしょうか？　ただ幸い　悲しみの日々が続いても　喜びの日々がまたやってくれば再び幸せを感じます。　切ない日々が続いても　辛い日々が続いても　喜びの日々が来ればそれまでの辛苦も　悲しみから抜け出したいという切望じみた日々も忘れられたり　消えたりします。　そうではないでしょうか？　人の心の動きの運命は元々そのように出来ているものなのでしょうね。　そういった変化を力で変えてやろうと　辛いことや悲しいことを無くそうと　いくら努力して四苦八苦しても変えることはできませんよね。　一度は成功しても二度　三度と常に続行してゆくとは限りません。　どんなに喜びあふれる幸せな日々を過ごしていても何かの影響で必ずそれが消え去ってしまう日々を迎えるでしょう。　これを佛教用語で五蘊盛苦と言います。　自分の心や身体が自分の思い通りにならないのです。　どんなに愛している人がいても相手が去り　相手の気持ちが変わらなければ自分の気持ちを元の喜びに戻すことは出来ません。　どんなに昔の様な喜びに満ちた美貌や美肌や体力に戻そうとしても年齢や病気と共に失われていきます。　でも大事なことは失われた喜びに執着するのではなく　新たな喜びを見つけることなのです。　年老いたものが若さを取り戻そうとしても無理です。　若い時の喜びはもはや失われてしまったのですから　そこへ戻ることは出来ないように私たち人間は造られているからです。　いくらもがき苦しんでもかえって自分の心と身体を苦しめるだけでしょう。　それよりも二十歳代には二十歳代の喜びと楽しみがあり　四十歳代には四十歳代の喜びと生き方があり　六十歳代には六十歳代の喜びと悟りがあり　八十歳代には八十歳代の喜びと心の締めくくりがあるのです。　ですので六十歳代の人が四十歳代や二十歳代の人の幸せそうな姿を観て　もう一度あの喜びに浸ろう　八十歳代の人が六十歳代や四十歳代の人の幸せそうな姿を観て　もう一度あの喜びに浸ろうとすること自体が苦しみになります。　過ぎ去った昔の望郷に浸り　失われた喜びを後悔するのは無駄なことなのです。　今日の日々の中で喜びを見つけることが大切だと思います。　他人と自分を比較しないこと　老年者が若年者と比較しないこと　年相応の喜びを探すことで生き甲斐を感じ生きてゆくこと　こうしたことによって心も身体も平穏にすることができ　そのような素朴で落ち着いた平静な心　それが天から人間に求められていることだと思うのです。　<a></a>

]]></itunes:summary>
      <content:encoded><![CDATA[
人生　喜びは続かないといってしまえば　皆さまはガクンとくるかも知れませんね。　でも残念ながらそれは真実なのですよ。　そうではありませんか？　喜びの後にその喜びが消え　でもまた新しい喜びがあるかもしれませんが　やはり消えてしまいます。　人生はそれの繰り返しですよね…　生まれてから死ぬまで一日たりとも悲しみや辛苦が無く　永遠に喜びで終わった人はひとりもいないはずです。　それが人の世の掟なのですから…　私もこれまで多くの喜びを得ましたが　多くの悲しみも得ました。　皆さまはどうでしょうか？　ただ幸い　悲しみの日々が続いても　喜びの日々がまたやってくれば再び幸せを感じます。　切ない日々が続いても　辛い日々が続いても　喜びの日々が来ればそれまでの辛苦も　悲しみから抜け出したいという切望じみた日々も忘れられたり　消えたりします。　そうではないでしょうか？　人の心の動きの運命は元々そのように出来ているものなのでしょうね。　そういった変化を力で変えてやろうと　辛いことや悲しいことを無くそうと　いくら努力して四苦八苦しても変えることはできませんよね。　一度は成功しても二度　三度と常に続行してゆくとは限りません。　どんなに喜びあふれる幸せな日々を過ごしていても何かの影響で必ずそれが消え去ってしまう日々を迎えるでしょう。　これを佛教用語で五蘊盛苦と言います。　自分の心や身体が自分の思い通りにならないのです。　どんなに愛している人がいても相手が去り　相手の気持ちが変わらなければ自分の気持ちを元の喜びに戻すことは出来ません。　どんなに昔の様な喜びに満ちた美貌や美肌や体力に戻そうとしても年齢や病気と共に失われていきます。　でも大事なことは失われた喜びに執着するのではなく　新たな喜びを見つけることなのです。　年老いたものが若さを取り戻そうとしても無理です。　若い時の喜びはもはや失われてしまったのですから　そこへ戻ることは出来ないように私たち人間は造られているからです。　いくらもがき苦しんでもかえって自分の心と身体を苦しめるだけでしょう。　それよりも二十歳代には二十歳代の喜びと楽しみがあり　四十歳代には四十歳代の喜びと生き方があり　六十歳代には六十歳代の喜びと悟りがあり　八十歳代には八十歳代の喜びと心の締めくくりがあるのです。　ですので六十歳代の人が四十歳代や二十歳代の人の幸せそうな姿を観て　もう一度あの喜びに浸ろう　八十歳代の人が六十歳代や四十歳代の人の幸せそうな姿を観て　もう一度あの喜びに浸ろうとすること自体が苦しみになります。　過ぎ去った昔の望郷に浸り　失われた喜びを後悔するのは無駄なことなのです。　今日の日々の中で喜びを見つけることが大切だと思います。　他人と自分を比較しないこと　老年者が若年者と比較しないこと　年相応の喜びを探すことで生き甲斐を感じ生きてゆくこと　こうしたことによって心も身体も平穏にすることができ　そのような素朴で落ち着いた平静な心　それが天から人間に求められていることだと思うのです。　<a name="more"></a>

]]><![CDATA[
]]></content:encoded>
            <category>日記</category>
      <author>浅田先生</author>
      <guid isPermaLink="false">blog:https://blog.seesaa.jp,shouzanin/499248726</guid>
                </item>
        <item>
      <link>https://shouzanin.seesaa.net/article/498477706.html</link>
      <title>運命なのか？</title>
      <pubDate>Wed, 08 Mar 2023 03:39:02 +0900</pubDate>
            <description>　皆さま　一度はこれも運命かな～て思った事や口にしたことは有りませんか？　運命には変えられるものと変えられないものがありますよね。　変えられないものは生まれた国　家柄　人種　家族　性別などです。　変えられるものはとてつもない野望でなければ　ほとんどの人は努力（精進）と勤勉や信仰である程度の心願成就は叶えられるし　変えられるはずです。　人は人と知り合って　または関わり合って　生きてゆく存在です。　人同士が関わらずに生きてゆくことは出来ないのです。　ここでひとつ運命に沿った男女の..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
　皆さま　一度はこれも運命かな～て思った事や口にしたことは有りませんか？　運命には変えられるものと変えられないものがありますよね。　変えられないものは生まれた国　家柄　人種　家族　性別などです。　変えられるものはとてつもない野望でなければ　ほとんどの人は努力（精進）と勤勉や信仰である程度の心願成就は叶えられるし　変えられるはずです。　人は人と知り合って　または関わり合って　生きてゆく存在です。　人同士が関わらずに生きてゆくことは出来ないのです。　ここでひとつ運命に沿った男女の恋愛についてだけ述べることにしましょうか。　というのも私の相談者の方々にいちばん多いご相談内容は恋愛のことなのです。　と言いますのもやはり若い男女のご相談が多いからでしょうね。　愛し合っている者同士が恋愛から　やがて成婚となればそれは　おめでたいことなのですが　皆が必ずそうなるとは限りませんよね。　恋愛当初は「君のことを一生愛し続けたい」「あなたとずっと一緒に暮らしたい」と言ってた彼や彼女がある日　突然　別れを切り出すことは稀ではなく頻繁に起こる場合もありますしね。　その時に皆さんは「え～！　ずぅ～と愛してくれるて言ってたのに…」「君と結婚したいって言ってたのに…」「お前の言葉をずぅ～と信じていたのに…」「将来　あなたのお嫁さんになるからね♡　と言ってくれてたじゃないか！」と　中には相手を責めたりする場合もあるでしょう。　そこで初めて相手の裏切り？を知ることになります。　愛して尽くして信じていた恋人から急にそんなことを言われてしまうと　とても辛く切なく悲しい思いに閉じ込めれれてしまうでしょう。　その夜は涙で枕が濡れてしまいますよね。　中にはもう二度と人を信じられなくなってしまったり　恋愛トラウマになってしまう人もいます。　ある歌手の唄に「もう恋なんてしたくない　したくないのさ～」て歌が有りました　ちょっと古い歌ですがね( ´艸｀)　でも現実に本当にそんな気持ちになってしまう方が多いのです。　中には「あれだけのことをしてあげたのに！　それだけのことをしてやったのに！」と　利他愛や慈悲の心でしてあげていた行為が　逆に恨みに変わり　徐々にお腹の中で何かが煮えくり返る人もいるでしょう。　そのように愛が憎しみに変わってしまう人もおられます。　私はそんなときにそのクライアントに「お辛いかも知れませんが　それも運命ですね…」と言ってしまうことが有ります。　でも私はけっしてマイナスの表現でそう諭しているのではないのですよ。　クライアントには「恋の終わりは涙じゃないの　それは思い出の始まりなのよ」というザ・ピーナッツの歌詞にあるように　まさにその通りなのですよ。　数ヶ月　いや　たとえ数週間でも　熱愛する人と幸せに過ごせた日々　天から与えられたその出逢いに感謝してゆく　それが必要な運命でもあり　真の心の成長でもあるのです。　数年も恋愛できた人なら　喜ばないといけないと思うのです。　そんなに長い期間　天から幸せを与えてもらったのだから…　わかってもらえるか否か分からないのですがそれが人の世であり定めなのでしょう。　出来事では無くて　その結果から悟らされるひとつひとつの心の修練が運命だと思うのです。　以前のブログにも書いたように　この世は「浮生夢の如し」で意外と短いのです。　あの世に持ってゆけるものは思い出だけだし　人生は心の修行といわれています。　辛くて切なくて悲しい運命はその修行を完成させるためにある道筋なのです。　このことをよ～く理解して頂けたら　苦しい運命をけっしてマイナスに捉えることはなくなるでしょう。　そんな経験に慈しみと甘美を持って人生を歩んでゆければ　天界からはきっと大いに喜ばれる人間として見守ってくれると思うのです。　そしてそういった人にこそ真の幸せがくるのではないでしょうか…　<a></a>

]]></itunes:summary>
      <content:encoded><![CDATA[
　皆さま　一度はこれも運命かな～て思った事や口にしたことは有りませんか？　運命には変えられるものと変えられないものがありますよね。　変えられないものは生まれた国　家柄　人種　家族　性別などです。　変えられるものはとてつもない野望でなければ　ほとんどの人は努力（精進）と勤勉や信仰である程度の心願成就は叶えられるし　変えられるはずです。　人は人と知り合って　または関わり合って　生きてゆく存在です。　人同士が関わらずに生きてゆくことは出来ないのです。　ここでひとつ運命に沿った男女の恋愛についてだけ述べることにしましょうか。　というのも私の相談者の方々にいちばん多いご相談内容は恋愛のことなのです。　と言いますのもやはり若い男女のご相談が多いからでしょうね。　愛し合っている者同士が恋愛から　やがて成婚となればそれは　おめでたいことなのですが　皆が必ずそうなるとは限りませんよね。　恋愛当初は「君のことを一生愛し続けたい」「あなたとずっと一緒に暮らしたい」と言ってた彼や彼女がある日　突然　別れを切り出すことは稀ではなく頻繁に起こる場合もありますしね。　その時に皆さんは「え～！　ずぅ～と愛してくれるて言ってたのに…」「君と結婚したいって言ってたのに…」「お前の言葉をずぅ～と信じていたのに…」「将来　あなたのお嫁さんになるからね♡　と言ってくれてたじゃないか！」と　中には相手を責めたりする場合もあるでしょう。　そこで初めて相手の裏切り？を知ることになります。　愛して尽くして信じていた恋人から急にそんなことを言われてしまうと　とても辛く切なく悲しい思いに閉じ込めれれてしまうでしょう。　その夜は涙で枕が濡れてしまいますよね。　中にはもう二度と人を信じられなくなってしまったり　恋愛トラウマになってしまう人もいます。　ある歌手の唄に「もう恋なんてしたくない　したくないのさ～」て歌が有りました　ちょっと古い歌ですがね( ´艸｀)　でも現実に本当にそんな気持ちになってしまう方が多いのです。　中には「あれだけのことをしてあげたのに！　それだけのことをしてやったのに！」と　利他愛や慈悲の心でしてあげていた行為が　逆に恨みに変わり　徐々にお腹の中で何かが煮えくり返る人もいるでしょう。　そのように愛が憎しみに変わってしまう人もおられます。　私はそんなときにそのクライアントに「お辛いかも知れませんが　それも運命ですね…」と言ってしまうことが有ります。　でも私はけっしてマイナスの表現でそう諭しているのではないのですよ。　クライアントには「恋の終わりは涙じゃないの　それは思い出の始まりなのよ」というザ・ピーナッツの歌詞にあるように　まさにその通りなのですよ。　数ヶ月　いや　たとえ数週間でも　熱愛する人と幸せに過ごせた日々　天から与えられたその出逢いに感謝してゆく　それが必要な運命でもあり　真の心の成長でもあるのです。　数年も恋愛できた人なら　喜ばないといけないと思うのです。　そんなに長い期間　天から幸せを与えてもらったのだから…　わかってもらえるか否か分からないのですがそれが人の世であり定めなのでしょう。　出来事では無くて　その結果から悟らされるひとつひとつの心の修練が運命だと思うのです。　以前のブログにも書いたように　この世は「浮生夢の如し」で意外と短いのです。　あの世に持ってゆけるものは思い出だけだし　人生は心の修行といわれています。　辛くて切なくて悲しい運命はその修行を完成させるためにある道筋なのです。　このことをよ～く理解して頂けたら　苦しい運命をけっしてマイナスに捉えることはなくなるでしょう。　そんな経験に慈しみと甘美を持って人生を歩んでゆければ　天界からはきっと大いに喜ばれる人間として見守ってくれると思うのです。　そしてそういった人にこそ真の幸せがくるのではないでしょうか…　<a name="more"></a>

]]><![CDATA[
]]></content:encoded>
            <category>日記</category>
      <author>浅田先生</author>
      <guid isPermaLink="false">blog:https://blog.seesaa.jp,shouzanin/498477706</guid>
                </item>
        <item>
      <link>https://shouzanin.seesaa.net/article/496533539.html</link>
      <title>人生は思い出</title>
      <pubDate>Tue, 10 Jan 2023 02:48:22 +0900</pubDate>
            <description>令和５年を迎えましたが　まだまだコロナ禍のご時世で日本も世界も大変ですね。　皆さま　くれぐれもご自愛してください。　さて今回は人生の思い出について語りたいと思います。　私は人生は良き思い出作りだと思っています。　良き思い出作りと言っても単に懐かしむ思い出ではなく　人間としてこの世に命を授かり　どれくらい貴重な思い出を受けたか　または　どのように貴重な思い出を残せるかが　生きていて最も大切だと思っています。　「あなたにとって大切な思い出はなんでしたか？」と普通に聞けば　家族と和..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
令和５年を迎えましたが　まだまだコロナ禍のご時世で日本も世界も大変ですね。　皆さま　くれぐれもご自愛してください。　さて今回は人生の思い出について語りたいと思います。　私は人生は良き思い出作りだと思っています。　良き思い出作りと言っても単に懐かしむ思い出ではなく　人間としてこの世に命を授かり　どれくらい貴重な思い出を受けたか　または　どのように貴重な思い出を残せるかが　生きていて最も大切だと思っています。　「あなたにとって大切な思い出はなんでしたか？」と普通に聞けば　家族と和気藹々と暮らせた日々　友人と遊び楽しく過ごした日々　生き甲斐の有る仕事に就けたこと　失恋も有ったけど楽しい恋愛ができたこと　国内や海外のいろんなところへ旅行できたこと　良き配偶者や子供に恵まれたこと　そういった回答が多いのです。　だいたいは情緒あふれる家族愛や友人愛を語り　中には職場での懐かしい思い出を語られます。　しかし見ず知らずの他人から情愛をもらった思い出話や助けてもらった思い出話を耳にすることはほとんど有りません。　何故でしょうか…　親や兄弟姉妹　または友人から良くしてもらった思い出話は耳にするのですが　子供の頃に親切にしてもらった近所のおばさんや旅先で出会った見ず知らずの人に助けてもらった思い出などを記憶されている人が非常に少ないのです。　親がいつも仕事などで忙しく　一人寂しい時に遊園地に連れて行ってくれた近所のおじさん　悩み苦しんでいた時に食べ物やお金を恵んでくれた近所のおばさん　公園でひとり泣いているときに優しく声をかけてくれた見ず知らずのお姉さん　とても悲しい時に情愛でもって辛い心を救ってくれた級友や先生　そういった昔に　ひとときの心の癒しを与えてくれた人への感謝はなかなか思い出せない人が多いようです。　それは子供の頃や単なる近所の人や見ず知らずの人からのひとときの出来事だったかも知れませんが　私は二度と会うことのないその一瞬の人との出会いを良く覚えていて今も忘れられない大切な思い出として残っているのです。　何故かと申しますと　それはその人への恩返しも御礼も一生出来ないからなのです。　家族や友人で有れば今　恩返しが出来ます。　でもどこか遠くへ行ってしまった近所の優しかった人や名も知らない通りがかりの優しかった人などは探しようもなければ生死さえも分からない。　そのことが残念なのです。　これから先　おそらく一生会うことは出来ないでしょう。　昔　私が中国の広州に住んでいた時　光孝寺というお寺によくお参りに行きました。　そこでそのお寺の住職と親しくなり　いろんな教えを頂いたのですが　ある日　その住職に「お寺でも神社でも参拝するときに、心願成就するとすれば、まず恩義のある人への感謝をしてから、個人的なことを祈りなさい。」と言われました。　「そしてその方に恩返しできないのなら、今度は君が見ず知らずの人に情愛を施し、食べ物を恵んであげなさい。　それが神仏さまが人間に求めている人の心なのだよ。」と言われました。　人が死んでからあの世に持って行けるものは　そういった貴重なことも含めた思い出だけだと思っています。　四苦八苦しながら働いて　そしてまた汗水流して働いて　一生懸命に育ててくれた親への感謝は勿論なのですが　そういった隣人愛という見ず知らずの人からの救いや御恩を受けとこと　また先生や級友などに助けてもらった情愛　それから湧きあがる感謝の気持ちもまた最も大切な思い出として忘れずに暮らしてゆくこと　それを心に秘めながら　残りの人生を歩んでいる今日この頃です。<a></a>

]]></itunes:summary>
      <content:encoded><![CDATA[
令和５年を迎えましたが　まだまだコロナ禍のご時世で日本も世界も大変ですね。　皆さま　くれぐれもご自愛してください。　さて今回は人生の思い出について語りたいと思います。　私は人生は良き思い出作りだと思っています。　良き思い出作りと言っても単に懐かしむ思い出ではなく　人間としてこの世に命を授かり　どれくらい貴重な思い出を受けたか　または　どのように貴重な思い出を残せるかが　生きていて最も大切だと思っています。　「あなたにとって大切な思い出はなんでしたか？」と普通に聞けば　家族と和気藹々と暮らせた日々　友人と遊び楽しく過ごした日々　生き甲斐の有る仕事に就けたこと　失恋も有ったけど楽しい恋愛ができたこと　国内や海外のいろんなところへ旅行できたこと　良き配偶者や子供に恵まれたこと　そういった回答が多いのです。　だいたいは情緒あふれる家族愛や友人愛を語り　中には職場での懐かしい思い出を語られます。　しかし見ず知らずの他人から情愛をもらった思い出話や助けてもらった思い出話を耳にすることはほとんど有りません。　何故でしょうか…　親や兄弟姉妹　または友人から良くしてもらった思い出話は耳にするのですが　子供の頃に親切にしてもらった近所のおばさんや旅先で出会った見ず知らずの人に助けてもらった思い出などを記憶されている人が非常に少ないのです。　親がいつも仕事などで忙しく　一人寂しい時に遊園地に連れて行ってくれた近所のおじさん　悩み苦しんでいた時に食べ物やお金を恵んでくれた近所のおばさん　公園でひとり泣いているときに優しく声をかけてくれた見ず知らずのお姉さん　とても悲しい時に情愛でもって辛い心を救ってくれた級友や先生　そういった昔に　ひとときの心の癒しを与えてくれた人への感謝はなかなか思い出せない人が多いようです。　それは子供の頃や単なる近所の人や見ず知らずの人からのひとときの出来事だったかも知れませんが　私は二度と会うことのないその一瞬の人との出会いを良く覚えていて今も忘れられない大切な思い出として残っているのです。　何故かと申しますと　それはその人への恩返しも御礼も一生出来ないからなのです。　家族や友人で有れば今　恩返しが出来ます。　でもどこか遠くへ行ってしまった近所の優しかった人や名も知らない通りがかりの優しかった人などは探しようもなければ生死さえも分からない。　そのことが残念なのです。　これから先　おそらく一生会うことは出来ないでしょう。　昔　私が中国の広州に住んでいた時　光孝寺というお寺によくお参りに行きました。　そこでそのお寺の住職と親しくなり　いろんな教えを頂いたのですが　ある日　その住職に「お寺でも神社でも参拝するときに、心願成就するとすれば、まず恩義のある人への感謝をしてから、個人的なことを祈りなさい。」と言われました。　「そしてその方に恩返しできないのなら、今度は君が見ず知らずの人に情愛を施し、食べ物を恵んであげなさい。　それが神仏さまが人間に求めている人の心なのだよ。」と言われました。　人が死んでからあの世に持って行けるものは　そういった貴重なことも含めた思い出だけだと思っています。　四苦八苦しながら働いて　そしてまた汗水流して働いて　一生懸命に育ててくれた親への感謝は勿論なのですが　そういった隣人愛という見ず知らずの人からの救いや御恩を受けとこと　また先生や級友などに助けてもらった情愛　それから湧きあがる感謝の気持ちもまた最も大切な思い出として忘れずに暮らしてゆくこと　それを心に秘めながら　残りの人生を歩んでいる今日この頃です。<a name="more"></a>

]]><![CDATA[
]]></content:encoded>
            <category>日記</category>
      <author>浅田先生</author>
      <guid isPermaLink="false">blog:https://blog.seesaa.jp,shouzanin/496533539</guid>
                </item>
      </channel>
</rss>

