2026年10月07日
失恋で苦しむことなかれ
以前に人生は一回限りではなく今世は一回限りであるというのが正しいということをブログに書いたと思います。 その通りで仏教でも人生は何度もあると説かれているわけですから そこを悟れないと生きていても苦しみが積み重なることになろうかと思います。 ブッダこと釈尊が私たち人間に悟ってもらいたいことのひとつは人生は一回限りではないので 人生は一回限りとして執着して生きることは無明なことであり 今世の生きざまが有り 来世の生まれが生じるということをしっかりと悟らないといけないということなのです。 つまり今世 辛く悲しいことも多く体得して その上で心の修行をする。 そして自分は苦しくとも他人に喜びを与えて 今世を大切に生きてこそ 来世の幸せがあると信じることが大事になろうかと思います。 さて… 四苦八苦の中に愛別離苦という釈尊のお言葉が有るのは皆様 ご存じの方は多いと思います。 これは何も家族や愛する人と死に別れることだけを表した教えではなく 男女の恋愛での別れも含まれています。 現今の社会では 恋愛をしていたカップルが何らかの気持ちの変化や事情で愛情が崩れてしまい 離別することが多々 起こっています。 つまり別れを切り出してサヨナラをしたい相手と 悔しくもサヨナラを受ける相手が生じてしまいます。 サヨナラを告げる人も辛いかもしれませんが とても愛している相手からサヨナラを告げられるのはもっと辛く苦しいでしょう。 中には失恋により悲しみのあまり 自死する人もおられる世の中になりました。 でも失恋は人間に生まれた以上 仕方のないことなのです。 そういった愛別離苦があることを前提として生まれてきているわけなのですから。 愛は憎しみに変わるという言葉が有りますが 確かに愛と憎しみは紙一重なのです。 中にはニュースで聞いたり 週刊誌などで知るように 失恋による憎しみによりストーカーになって事件を起こしてしまう人も出てしまう世の中になりました。 そんな愛の裏返しで憎を秘めた紙一重の恋愛をしている人もいるわけですね。 釈尊はそのようなことが起こる現象は 人には心が存在しているからだと述べています。 ただし心が身体のどこかに存在しているとは言っておられません。 心がどこに有るかも説いていません。 しかし心は造り出されていることは明言されています。 それは無我の中?とも言えないのです。 仏典を読んでいると心は受・想・行・識から造り出されるものと捉えるのが近いように思います。 古代インドにおいてウパニシャッド(古代インドの哲学聖典)という聖典を修めた多くの哲学者や思想家やバラモン教信者を含めた宗教家の中には 人間にはアートマンというものが宿っており そのアートマンとは「永遠に変化しない私(真の自己)」であり それが身体の内に存在していると信じていました。 そして当時の古代インド国民の多くはそれを信じました。 しかし後世に現れた釈尊はそれを否定されたのです。 「永遠に変化しない私と言えるものなどが身体の内になど存在しない」と明言されたのです。 般若心経の中に無色受想行識(=永遠不変の身体・感覚・認識・心の働き・意識などは無く すべて変化する)と言っておられます。 つまり 永遠に変化しない真の自己(我=私)などはないと言われました。 古代インドの哲学者や思想家や宗教家たちは人間には永遠不変のアートマンが存在しているのだから心も当然に変化しないと確信していたにもかかわらず 釈尊はそのようなアートマンは存在せず 「無我」であると説かれたのです。 釈尊は当時 愛する人を失い辛苦を持つ人々に このように永遠不変ではない私なのだから 今の辛く苦しい自分が永遠に続くことはないがゆえに 仮に一生涯に何度か度重なる辛苦が有ろうとも 心苦しい変化によって その都度 人生そのものに失望する必要はないということを諭しておられました。 万が一ある人がそういった無我(変わらない私という固定化された実体はない)や無常(常に同じ状態や状況ではない)を悟れずに人生を終えたとしても また来世が有るということなので 失恋にそこまで落ち込み悲しむ必要はないということを若年層の庶民にわかってもらいたかったようです。 しかしながら 現実的には愛しき人を失ってしまうと ある程度の期間は辛く 切なく 悲しいでしょう。 それは私も若し頃は経験が有ります。 でも年月が経てば必ずゆるやかにそのような気持ちから穏やかに立ち直れるでしょう。 そしてまた新しい恋人が出来れば過去の自分の辛く悲しい気持ちはどこえやら… 忘れて消えてしまう人の方が多いでしょう。 あるいは過去を忘れて新しい生き方に幸せを見つけられることもあります。 この読者の中にもそのような体験と体得をされた方で 今はそれなりに別の幸せを感じる生活に変化された方は多いと思います。 釈尊の言葉に「ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくりだされる。 もしも汚れた心で話したり行ったりするならば、 苦しみはその人に付き従う。 車をひく牛の足跡に車輪がついて行くように。」と「ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくりだされる。 もしも清らかな心で話したり行ったりするならば、福楽はその人につき従う。 影がそのからだから離れないように。」とが有ります。 これは心の変化 つまり心の持ち方次第によって苦しみにも至り 楽にも至るということです。 釈尊の教えは永遠不変の私(アートマン)などは存在せず 無我・無常ですので心も変化する働きを当然に持っていると諭しています。 そもそも心が変化しないと思うことは間違っているのです。 釈尊は「ものごとは心にもとづく…」と諭した上で 心は変化するものだと教えているにもかかわらず 現在でも今の自分の悲哀で辛苦な心はおそらくこの先も永遠不変だと思い込んでいる人もけっこういるようです。 そんな心にいつまでもとらわれている(支配されている)と やがて鬱の状態に入り 自分自身を見失ってしまうことにもなりかねません。 まさにそのような人は無意識か潜在意識の中でウパニシャッドによるアートマンの存在に支配されていることになります。 このことをよ〜く理解して頂きたいのです。 例えば 失恋という出来事により 仮に心が辛く悲しい気持ちに変化してこれからの生きがいや希望をなくしてしまうような心境になるようなら そこで釈尊の言葉を思い出して… 心は変化するものだと悟ってほしいのです。 そしていつの日か 辛く悲しい気持ちからは必ず解き放される私という未来があるのです。 若くてもそのことをしっかり悟ることができれば失恋という愛別離苦で 一時的には苦しくとも けっして永遠に苦しむことはないわけです。 釈尊は四苦八苦の中で愛別離苦と説いてはいます。 そして 人生でそれを体験するとは言っておられますが 永遠に続くとは言っておられません。 そこを勘違いしないように賢い人生を歩んでゆくことが大切なのです。

