【関連する記事】
2022年08月08日
因果応報
因果応報という言葉は皆さま もちろん ご存知ですよね。 ただこの報いが現世だけで起こるものだと思っている方が多いのですが そうとも限らないのです。 実は因果応報は ブッダこと お釈迦さまがお説きになられた佛様の真理の教えなのです。 因果応報には良い行為による因果応報と悪い行為による因果応報が有るのです。 この世で良いことをすれば その恩恵は自分に戻ってくるけれども 逆に悪いことをすれば必ずその報いも自分に返ってくるという教えですが 現世(今世) 現今の世界中の様々な人々を観察していて 必ずそうなっているとは限らないですよね。 たとえば献身愛でもって家族だけでなく 友人にも愛情を尽くし ある人は利他愛で隣人や他人にまで金銭や生活費を工面して助けておられる人がいる しかしながら その様に隣人や他人にまで情愛や人情で施しをしたからといって あるいは経済面や社会面で隣人や他人に尽力したからといって 必ずその恩恵(恩返しなど)がいつか 自分に戻ってくるとは限りませんよね。 確かに恩恵が違う形で戻ってきている人もおられますが 何の恩恵も報酬も返らず 日夜 四苦八苦して一生を終えてしまう方も多々おられますね。 逆に人を苦しめ 極悪非道なことをしても なんの悲惨な報いも無く現世 豊かな生活を送り または安楽に過ごし 長寿で安らかに永眠される人もいますよね。 そういうこともあるのでこんな不条理な因果応報なんて信じない方も多いでしょう。 でもそれは大きな勘違いなのです。 お釈迦さまは因果応報が必ず現世(今世)だけの行為で起こり得る出来事だとは説いていないのです。 また因果応報は悪いことをした人だけへの戒めの言葉だと理解されておられる方も多々おられますが それも誤解なのです。 釈尊こと お釈迦さまによると 前世でのその人の生き様(その行為による因縁)によって 今世にその因果応報(原因と結果の報いに応じる)が成されるということなのです。 それは生まれながらにして すでに成されてしまっている人もいるということなのです。 たとえば前世で人を差別した人は今世では差別される側に生まれてくる または前世で人を虐めた人は今世では虐められる側に生まれてくる 前世で身分が高く権力を持った人が身分の低い人を馬鹿にすれば 今世では身分が低く馬鹿にされる側に生まれてくる 前世で人をお金で苦しめた人は今世ではお金で苦しめられる側に生まれてくる といった様に 因果応報は必ずしも今世だけの因縁で起こる事象ではなく 前世のその人の心と生き様によって起こる事象だと説いておられます。 このように悪い行為による因果応報は必ず 現世もしくは来世でいつかは自分に返ってくるということなのです。 隣人や他人を苦しめたその報いは 隣人や他人を苦しめたその者への心の修行のためにあって その者自身が逆にその辛苦を自ら受けることによって その心の苦しみを痛感し そして深く反省 懺悔し 二度と他人を苦しめてはいけないという悟りをもって清い心にするためにある運命あるいは宿命だということなのです。 仏教では人間は輪廻転生を繰り返すのですから このことをよ〜く理解している賢者ならば けっして人を苦しめたり騙したりしないはずです。 人種やお国柄で人を軽蔑することなく 美貌や容姿で人を辛くさせたり 苦しめることはなく 地位や職業で人を差別することはないのです。 そうではなく 隣人や他人を労わり 利他愛を持ち 苦しんでいる人や悲しんでいる人に心優しく接し 時には病苦の人や貧しい人に身体を施して助けてあげるか 金銭を与えて生活援助してあげるでしょう。 その様に共感して助けてあげることが喜ばしい陰徳であり そのことが良い行為における喜ばしい因果応報に繋がるという意味でも有るのです。 しかしながら隣人や他人を助ける善良な行為であっても 因果応報はけっして見返りを求めてはならないということです。 こうしてあげれば彼は将来 必ずそうしてくれるだろう ああしてあげれば彼女は将来 必ずこうしてくれるだろう という心得は損得勘定による利益の欲心であって 真心からくる自然の情愛ではないからです。 見返りの行為は 仏教からすると それはけっしてブッダの教えに従った真の喜び 真の仏道にはならないのです。 慈悲愛ある喜ばしい因果応報と言っても けっして見返りを求めない真心から湧きあがる自然の情愛による善良な行為 それがとても大切だということなのです。