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2025年01月10日
先祖供養の大切さ
新年あけましておめでとうございます。 2025年はどのような年になるでしょうか? 世界での戦争や飢餓などが無くなり穏やかな年になるよう願っております。 さて今回はよくお寺用語でお坊様が故人において誰々はもう「浮かばれている」という言葉を耳にしたことはありませんか? 浮かばれているとは要するに霊界に渡り彼岸に至っているという意味で信者に伝えていることがほとんどだと思います。 彼岸とは あの世(霊界)の安らぎの境地または極楽浄土といったような意味で解釈されています。 ただ故人が皆 亡くなられてやがて自然に彼岸に至っているか否か それは誰にも分かりません。 なぜならあの世(霊界)に行ってその故人に会って 帰ってきたその故人の知人は誰一人いないのですから。 だた お坊様などはそう言って遺族を慰めている または安心させているのでしょう。 よくテレビや書物なんかで日本あるいは世界で優れたサイキック(霊能者)などの中で よくあの世のことを語る人がおられますが それは単にその霊能者が霊視でそのように感じているか 思っていることを人々に伝えているだけなのです。 あの世のことを本当に知り あの世の真実を教え 語っていた方は過去においても今においてもただお一人 釈尊こと お釈迦様だけなのです。 釈尊も理由(わけ)が有ってあの世に関する明解な詳細は語っていませんが五道(天上道・人間道・畜生道・餓鬼道・地獄道)または六道(天上道・人間道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道)の世界がありその内容や種類においては 舎利弗尊者や目連尊者をはじめ 当時の仏弟子たちや庶民の信者たちに説いておられました。 また彼岸もあの世(霊界)にあると明言されておられます。 つまりこれら五道や六道があの世といわれる霊界という世界なのです。 ではよく近代の霊能者で亡くなられた親族の霊体(魂の霊位と言う)が「亡くなられた誰々があなたの肩の横に居られますよ」と言ってそのご遺族に話している場面などをテレビで見られたり 書物で読まれたりしている方も多いと思いますが ではその霊体がおられる世界は何という世界なのでしょうか? お釈迦様はこの世(現界)とあの世(霊界)を完全に切り離して語られておりますので この世(現界)であの世(霊界)にいる故人の霊体の姿を観れるなんてことは一言も語られておりません。 そういうことですので 霊体などを語る専門家らによるとそれは専門用語で幽界と言っているようです。 つまり霊界に旅立ってゆく前の世界ということになるのでしょうか。 もしそうだとすればまだあの世(霊界)に旅立たれていないこの世(現界)に近い場所になろうかと思いますので 唯一の佛様 釈尊のお言葉からすると その故人はまだ浮かばれているとは言えないことになります。 なぜなら霊界こそが浮かばれている世界であって そこに彼岸が有るのですから。 お釈迦様の真実の言葉による総集である原始仏教の中では説かれておりませんが お釈迦さまの仏弟子で優れた神通力(透視能力や霊視能力)のある目連尊者が亡くなって彼岸に至れていると思っていた自分の母が地獄に落ちて逆さ吊りにされていたのです。 その上 ガリガリにやせ細っていました。 悲痛な思いで驚いた目連尊者は直ちに食物をある仏門精舎にてお供えして心身ともにあの世(霊界)にいる母を助けるために心願成就したところ 神通力で再びあの世の母を観ました。 そうすると母が供物されたその食べものを口に入れようとするとすべて火の玉に変化するというお話を描いた盂蘭盆経は有名ですね。 それも霊界での出来事の話であって目連尊者は現界に生きている人間の傍や周囲あるいは天空などを見つめて そのような母の姿は観ておられないのです。 あくまでも瞑想の中での神通力で観られたようです。 では仏教からすると霊能者のような現界の人が交信できる故人は霊界に居るのではなく まだ幽界に居ることになります。 そうなると どうすれば亡くなられた故人に安心して本当の世界=あの世(霊界)に帰っていただくか つまり霊体となった姿で霊界に旅立ってもらうのか あるいは旅立たせてあげるのかということになります。 皆さんが先祖供養や年忌という言葉をよく耳にされてお寺で成されている法事が有りますね。 それらの真意の目的は まだ幽界で彷徨っている故人や あるいはあの世の五道(小乗仏教による世界)または六道(大乗仏教による世界)において まだ辛苦の連なる思いでおられる故人を まずはこの世から霊界へ あるいはすでに霊界に渡られたのであれば一刻も早く安楽の境地へ導いてあげるための儀式なのです。 法華経など古い仏教本などによると あの世(霊界)の人間道の世界に入れば また地球上のどこかの国のどこかの人間として輪廻転生すると言われています。 もしかしたら違う銀河の星にまた人間の様な姿?で輪廻転生させられるかもしれません… そんなことはどれほど有名な科学者でも一切解明できない話しですが… いずれにしても また心をより清く磨くためとも 前世で尽くせなかったことへの新たな心身の修行のためとも言われています。 残念ながらその真意はお釈迦の原始仏教では何も語られておりませんので誰にも分かりません。 ただし人間には前世の生きざまがあって今世が有り 今世の生きざまがあって来世があるというように 人間は何度も何度も輪廻転生をして修行に修行を重ねて終には菩薩の心を育て持ち この輪廻転生のサイクルから解脱しなければならないと はっきりと明言されておられます。 要するに人間が菩薩の心を持つことが卒業ということであるならば とりあえずは故人を愛しく思い 故人に精進できない幽界にいつまでも留まることなく この世(現界)に生きていた時の愛執や執着から一日も早く離れることを納得して頂き あの世(霊界)に自ら旅立ってもらうため あるいは見送ってあげるためには 年忌などを含めた年数を重ねる先祖供養をしっかりして 無事にまた輪廻転生をさせてあげなければならないということになるでしょう。