2024年03月14日

喜び喜ばれる

人生で最も大切なこと それは喜ばれる人になることだと私は思っています。 なかなかつかみ難い表現かも知れませんが それは敢えて愛されたいとか 慕われたいといったような目的をもって人を喜ばせることではありません。 また単に仕事により人に物を与えたり 世話をして感謝され 喜んでもらえる行為でもないのです。 「こうしておけば あの人は喜んでくれるだろう。」「ああしておけば その人は私に感謝してくれるだろう。」は自分自身への満足感であって必ずしも他人からは喜ばれる人になっていないことが多々あるのです。 ご自身が三徳(地位 名誉 財)を得ればそれらの権力や名声やお金で家族や友人や知人を助けられるから 一生懸命に頑張ろうということでもないのです。 ただし 仮にどんな意図ある行為でも人を救うこと 人を助けることはもちろん大切で有難い行為だと私は思っています。 が しかし 老子はそんなことは小さいことだと諭しておられます。 それらは単に現世のひとときの喜びであって それで本当に他者を喜ばせているとは限らないからだそうです。 なぜなら この世には賢者が少なく 無明な者が多いからだそうです。 「三徳を得るために凄まじい努力と忍耐を乗り越えて良くやった!」とその家族は一緒に喜んでくれるかもしれませんが 他人は… 人によっては建前はそうであれ本音は 本人と一緒になって必ずしも親のように心から喜び 称賛してくれているとは限らないということですね。 ひとつ間違えば他人に嫉妬や恨みを抱かせるからです。 それらは必ずしも影の陰徳にはならないのです。 また人は三徳のどれかでも得ることが出来ればその瞬時としばらくの期間は大いなる喜びと幸せに浸れるでしょうが 時が過ぎると徐々に冷めていきませんか? 大金を得ても地位を得ても名声を得ても愛人や子供を得ても1年 3年 5年 10年と時が経つにつれ 熱望していたある喜びを取得した当時の歓喜あふれる感動の気持ちは徐々に少なくなったり 遠ざかっていることはないでしょうか? それらの多大な喜びが死ぬまで永遠に続くことは極めて稀だと思います。 なぜなら それらは自分自身の多々ある欲望の内から単にひとつを叶えただけの一瞬の幸せだからなのです。 人間は元来 多種多様な欲望を持ち 次から次へとそれを追い求めてゆく生き物ですから… それらが煩悩にならないように仏教でいう無常観を悟り 八正道に心がけない以上 特に若いうちは欲望にはキリがないものです。 家族や友人に限らず 見ず知らずの人からも喜びを与えてもらったら その喜びは時が経てば経つほど 歳を取れば取るほど大きくなってゆかなければならないとある聖人は説いています。 仮に現今はその歓喜が無くなっていても その時の幸せを体得できたことに感謝し けっして忘れないこと。 それが出来ている人が賢者なのです。 また 救いや恵みを与えてあげた他人からの喜びの気持ちが消えることなく 年月が経てば経つほど遥か彼方からでも 見えない陰からでも深く感謝してくれているとすれば それが貴い陰徳です。 それでこそ初めて喜ばれる人となりましょう。 もちろん 苦しい人や貧しい人に金員などを与えたり 優しい行為で人を労わることも尊い行為です。 さらに上においては 和光同塵を語った老子の道教によると 自身の存在感を見せずに隣人を救う行為が最も尊いということです。 つまり私が…という自身の存在感を誇示した行為ではないということですね。 通りすがりに慈愛の心でいろんな面で人助けをして「この私が多くの人々の生活を助けてあげたのですよ!」というような証や名前を残さず 影に隠れながら人目に付くことなく やがて遠くへ去ってしまった人ということになります。 近親者同士や友人同士間での助け合いだけではなく 全く見ず知らずの人や隣人に喜びを与えてあげることが人道であり けっして「誰々には何々してあげたから いつか将来はその人は私にも〜」という見返りを持たないこと そういったことが人が生きてゆく上で最も大切な人道であり それを天界は人間に求めていて それが真に天からも喜ばれる人だと諭しています。
posted by 浅田先生 at 05:14| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする