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2022年01月15日
人間が決めた幸せ
人間が決めた幸せに惑わされないように生きましょう。友人・知人や相談者の多くに、苦しみからの解放において、幸せの概念をこの浮世でいう世間の習わしに囚われている人をよく見かけます。お金持ちになれば幸せ、社会的地位が高ければ幸せ、名誉ある職に就ければ幸せ、学歴が高ければ幸せ、美貌が良ければ幸せ、結婚出来れば幸せ、子供が出来れば幸せ、と考えている人が多いのですが、それは確かに楽しく嬉しいことかもしれませんが、人生は本当にそれで幸せなのでしょうか?若い時はそう思っている人も多いかもしれませんが、人生は今や80〜90年あるのです。幸せとは日々、満足に暮らせることだと前にも申しましたが、いつも満足に暮らせている人なんて一人もいないはずです。お釈迦さまのお言葉で、悪魔パーピマンが「子のある者は子について喜び、また牛のある者は牛について喜ぶ。人間の執着するもとのものは喜びである。執着するもとのもののない人は、実に喜ぶことがない。」と言いました。でもお釈迦さまは「子のある者は子について憂い、また牛のある者は牛について憂う。実に人間の憂いは執着するもとのものである。執着するもとのもののない人は、憂うることがない。」と答えました。悪魔パーピマンとは、いわゆる人間の煩悩を司るアートマン(自我・真我)のようなものではないかという説もあります。ここで言う子は自分の子供のことですが、牛とは財産のことと言われています。当時、インドでは牛は豊作などのために働き、その家族の生活を豊かにしてくれる宝物のようなものでしたので、有難い財産だったのです。ですので、牛を沢山持っていた人は他人からたいへん羨ましがられていたようです。つまり、悪魔パーピマンの言葉から子孫が有り、財産があれば幸せであるとも捉えることができるでしょう。しかしお釈迦さまは、そうかもしれないが、子供がなければ子供のことで悩むこともないし、財産がなければ、それが無くならないようにと常に心配することもない、とおっしゃっている様に捉えることができるでしょう。では結論としてどちらが本当の意味において幸せなのか?ということになるわけですが、悪魔パーピマンの言葉が真実ならば、子や牛がある日々は幸せだけれども、その代わり、子が常に親孝行で育ってくれることを毎日、願わなければなりません。もし親不孝になればそれで一転して、悩み苦しむ不幸な日々を迎えることになります。また牛も元気良く働いてくれている日々は幸せですが、年老いて病気になれば豊作ができなくなり、日々悩み苦しむことになるわけです。一方、お釈迦さまのお言葉は、子がなければ子を観察しながら喜ぶことはないかもしれないが、逆に、子供がいないわけですから、子供の振る舞いで日々悩み苦しむこともないのです。また牛がなければ豊作できないかもしれませんが、牛がいないわけですから、老牛の介護をしなくてすむわけですので日々悩み苦しむことはないのです。現代社会において語るならば、お釈迦さまは、実に子供を溺愛して、高級なものや大金を持てば、それらを守らなければならないことになるであろう。しかし、月日は過ぎ去ってゆくものであるからして、無常(常に同じ状態ではない現実)なのだ、と言っておられるように思います。可愛い子供も成長し、成婚して実家を去れば寂しく切なくもなるだろうし、お金が豊富にあって、ほしいものをなんでも買えたとしても、徐々に年老いてゆき、美貌が崩れ、体力も衰え、体形や体調が崩れてゆくわけですので、そんな姿の自分を仮に高級な衣服や品々で着飾って魅力を見せようとしても、若いころの様に他人から魅了されることもなく、また病気になれば好きなものをなんでも食べれることも出来ず、かといって必ずしも溺愛して育てた子供に介護してもらえるわけでもなく、やがてはそういった喜びの執着は憂いになり、苦しみに至るのであると、おっしゃっているようにも聞こえます。このように、あの世に持ってゆけない人間が決めた幸せは、実につまらないものだということなのです。人間の本当の幸せはこんな現実社会のそんな飾りの姿にあるのではないことを悟らせておられます。このことをよ〜く理解できている人は真に、苦しみから遠ざかることが出来き、本当の心の安らぎに向かってゆくことができるということなのです。