2021年12月05日

幸不幸は紙一重

象山院へ運勢相談に来られる方々も人生相談に来られる方々も 相談者は皆「幸せになりたい」あるいは「また幸せになりたい」ということなのです。それは勿論 人間なら当たり前のことで当然この私もそうです( ´艸`)。
でも お釈迦様は人生は四苦八苦だと言っておられます。つまり四苦八苦は人間としてこの地球上に誕生した限り すべて四苦八苦の掟を背負った宿命があるということなのです。たとえひとときはこの上ない幸せな日々を送っていたとしても 必ずまた不幸な日々が訪れます。
幸不幸の繰り返し それが人生なのです。なぜなら お釈迦様は人生は無常(物事は永遠に同じ状態や状況を保つことは無く 必ず崩れ去り消えてゆく事象)だとも説かれていますから…。
幸せとは日々満足に暮らせることなのでしょうが 失った幸せを取り戻そうと努力して 取り戻せたとしても また違った状態や状況で不幸が訪れるでしょう。それが世の常 世の掟であるからなのです。
毎日毎日 幸せというものに心を執着していても 心身共に取り越し苦労が重なるだけで 心労で身も心も疲れ果ててしまいます。
無常であることのほか 得るものがあれば必ず失う物があるという原理を悟って生きているほうが心が休まると思うのですが…。
だから私は近年 常にそうして生きるように心がけています。
独り身のある中年の相談者が「私は切なく寂しい日々を送っていて 特に将来への夢や希望といったものは有りません」と語られました。
私は「それは私もそうですよ」と答えました。その方はちょっと驚いたようなお顔で「先生もですか?」と…。
「そら 私も人間ですもの…」と私は答えました。
その方は「でも 先生には悩みが無いように観えますがね…」というので「私の様な歳にもなれば悩みの無い人や これまで一度も切なく寂しい経験の無かった人なんていないでしょう みんな悩みや苦しみがないように観えるだけであったり あるいは辛苦がないようにふるまっているだけですよ」と言いました。
いつも思うのですが人間には心がありますのでどうしても四苦八苦を背負っています。私も背負っていて苦しいのですが執着しないように生きているだけなのです。だからそう思われるのかもしれませんが 私も例外ではなく 四苦(生老病死)や八苦の愛別離苦(愛する者と別れなければならない苦しみ)・怨憎会苦(嫌なやつと会わなければならない苦しみ)・求不得苦(欲しいものが手に入らない苦しみ)・五蘊盛苦(身体の痛みや感覚あるいは心で決めたことなどの苦しみ)に常にとらわれています。
まさに幸不幸は紙一重であって それが人の世の常で有り 当然の事象だということを分かってほしいのです。
そうすればきっと夢や希望が無くても 人生を全うする生き甲斐というものを感じ取れるのではないでしょうか…
私は人生は思い出作りだと思っています。あの世に持って帰れるものは思い出だけだと思います。
みんな生きているときには辛いことも悲しいこともたくさんあった! でも誰しも 楽しいことや嬉しいことも多かれ少なかれ味わったはずです。
この世の年数で言うなら百年に一度か千年に一度か知りませんが 仏教ではこの世に生まれてこれる人間はインドのガンジス川にあるすべての砂の中から たった一握りの砂の数ぐらいだと言われています。
それぐらいに人間の命は貴く尊いのです。
中年になって あるいは年老いて もう今更 夢や希望が無いからといって しょげて生きるのではなくて(あるいは稀に身を投げてしまう人もおられますが…) そうではなく 人は皆そんな思い出を貴重な宝として人生を最後まで歩んでもらいたいと願っています。
posted by 浅田先生 at 03:11| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする