【関連する記事】
2016年09月30日
前世・今世・來世
前世・今世・來世、先祖代々からの仏教を引き継ぎ、仮に仏教を信仰されていなくても一度はお坊さんの説法を聞いたことがあったり、お墓参りをされたことがあるのならば、ほとんどの人はこれらの言葉は何度か聞き覚えのある文言でしょう。運勢相談で多くの人生相談者が私の居る象山院にご来院され語られるのは勿論、人生に於ける四苦八苦、つまり社会生活や家庭生活や人間関係などの辛苦のお話です。「友人はそれなりに食べていけているのに、なぜ私は食べていくのに苦労するのだろうか」「周りの友人知人は次々に結婚していけているのに、なぜ私は結婚できないのでしょうか」「仲間はリストラに遭わないのに、なぜ私がリストラに遭うのでしょうか」「周りはそれなりに皆健康なのに、なぜ私はまだ若くてもこんなひどい病にかかるのでしょうか」「友人知人のお子様はきちんと学校に通っているのに、なぜ私の子供は親に反抗し不良になるのでしょうか」「周りの家族らはそれなりに和気あいあいと生活しているのに、なぜ私の家族は皆喧嘩ばかりするのでしょうか」といったように、「なぜ?なぜ?なぜ?」と、このように心の辛苦を抱えておられる方々のご相談が多いのです。もっと可哀そうなのは「私の運勢はどうせ悪いのだから将来に夢や希望を持てない」「こんなに弱い身体では生きていても生き甲斐を感じられない」「人間関係の苦しみばかりで楽しみや喜びなど嬉しい日々を過ごしたことがない」「友人や家族からも見捨てられている」「親と意見が合わず親が大嫌いだ」「それなりに幸せな方が多いのに私は本当に不運ばかりで不幸だ」「こんな不平等な人間社会だから神や仏を信じられない」「いっそ病気になって早く死にたい」といったお悩みのご相談も多々ございます。こういった人々の心の苦しみや悲しみをお聞きして私はいつも共感します。でも同時に痛感するのは、ほとんどの方々の苦しみは‟人生は一回限り”という概念からの発想で今世にだけしか自分の立場を置いていないということなのです。よく‟人生は一回限りですから…”という言葉を耳にすることがあるのですが、それがもし仮に人間の人生が今世一回限り?と本当に思って、おっしゃっておられるとするならば非常に残念で無明な理念だと思うのです。もしそうであるのなら私もとてもとても毎日こうして生きていられません。なぜなら私にも相談者の方々と同様、その辛苦の種類は少し違ってはいるものの、人生に四苦八苦は多々あるからです。でも私が今日も平穏に前向きに生きておられるのは前世の私の生き様があって、今世の自分に与えられた数々の試練や修行を受ける人生が有り、今世の私の生き様によって来世の自分が与えられるという仏教にひとつの緩みもなく確信を持ち深く信じて生きているからなのです。仏教では梵語でこれをカルマといいます。意味は業、行為、宿命、因縁など様々に訳されていますが、いわゆる因果応報なのです。自分が人や生き物にした良い行為も悪い行為もいずれは必ず自分に返ってくるということなのです。このことをいろんな体得や感得を得て心の真から悟ることが出来れば、今世の様々ないかなる四苦八苦をも必ず乗り越えることが出来、余生へ、そして来世へと夢と希望を繋げて前向きに歩めてゆけるのです。この真理を無視し、その悟りを得ようとしなければ、どんなに必死に自分の力だけで苦しみを解決しようと努力してもけっして苦しみを乗り越えることはできないのです。それを皆様に解って頂きたいと思うのです。「苦しいけれど よろこびあふれる 苦しいけれど 苦しみのない人間は不幸だ 不平不満はあるけれど その苦しみにたえる 喜ばれる人間になる」私はこの貴高く尊いお言葉が大好きなのです。